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2019年6月15日 (土)

親の看取り 第3章

A

(お義父さん、安らかに。)

男性にとって妻の父はこの世で一番怖い相手の一人にあげる人は少なくないでしょう。しかしながらWATANKOの場合はさにあらず。妻の父はとても優しくて、妻が育った家庭の中では家族を結びつけ、温かく照らす太陽のような存在でした。これはWATANKOが結婚後、妻の家庭を20年以上眺めてきてみえた景色です。

そんな義父はここ数年、頚椎を痛めて首、肩周りにいつもかなりの痛みを負っていましたが、昨年9月、突然体が動かなくなってしまいました。

 

■突然の入院と宣告

義父は自宅がある東京区内の病院に救急車で運びこまれ、即入院です。検査のあとに家族に告げられた事実は、

「前立腺がんの症状が酷くなり下半身はもう動けなくなりました。がんは骨まで転移しており、余命は数カ月です。」

妻、WATANKOそして妻の家族がこの大きな悲しみと向き合いつつも、妻の家族は義母の意向を主として、義父の今後については副作用で苦しむ薬の投与や体に何本もの管を入れるような延命措置をさせることなく、天命のもとに残された命の灯に寄り添っていこうと決めました。

 

■緩和ケア病院への転院

入院して1カ月も経つと、病院側からはやんわりと退院をすすられました。義父が最初に入院したこの病院はあくまで病気や怪我を治す人が入院する病院であり、治療をやめて終末を待つ患者にいつまでもベットを与え続けるわけにはいきません。

家族で今後の介護について相談したところ、80歳を超える義母一人では下半身が動かない義父の世話を一から十まで見ることは現実的には不可能であり、また同居する妻の兄も仕事に出ずっぱりで介護には関われません。

そこで病院から紹介された医療ソーシャルワーカーに相談した結果、自宅からなるべく近いところで緩和ケア(終末医療)を専門とする病院を探して、そこに転院することにしました。

幸い自宅から数キロ離れたところにベットの空きがある緩和ケア専門の病院を見つけたので、11月に転院をすませました。緩和ケア専門の病院では数カ月で終末を迎えそうな患者に対して、積極的な延命治療は行いません。痛み止めの薬を投与したり、呼吸困難になれば酸素吸入をするくらいです。自ら経口で栄養がとれなくなった場合、家族の意向によっては点滴すらも行いませんから、当人はみるみる骨と皮だけとなって衰弱していきます。

 

■毎週末、お見舞いに通う日々

妻とWATANKOは義父に対して9月に最初に入院してから以降、毎週欠かさずお見舞いにいきました。妻は毎回、義父に色々な食べ物を持っていき食べさせていました。病院食には食欲がわかない義父でしたが、娘が持ってくる飲食物だけは少しでありましたが、喜んで食べました。

この他にも妻は手や足の爪を切ってあげたり、WATANKOは電動髭剃りで髭を剃ってあげたりと、できることはごく限られていましたが義父の世話を続ける毎週末でした。

また今年の正月には介護タクシーを利用して、義父を自宅に半日ばかり連れて行きました。そこでは義父が好きな料理とお酒を振る舞いました。

その後、義父は2月に入って一度呼吸困難を起こすも、それを乗り切ると小康状態が続きます。すると3月末になって緩和ケア病院からは、再び転院を勧められました。病院側からみれば当初想定した期間よりも長く延命しそうな義父の様子をみて、もっと長期間入院できる緩和ケア専門病院に移ってほしい態度がありありでした。

次に紹介された病院は湾岸地域に4月開院したばかりの新設病院であり、早速の転院となりました。義父にとって3つ目の病院は新しくて綺麗であり、入院患者がまだほとんどないためか看護師さんの対応も手厚いです。

ここでなら入院期間が長くなっても大丈夫な状況となりましたが、一方で義父はこの時点では食べ物をほとんどとらず、毎日水分と栄養剤を摂るのがやっとという状態まで衰弱してしまいました。

それであっても毎週末にお見舞いにいけば、意識がはっきりした義父からはお見舞いに来てくれたことに感謝されました。妻もWATANKOもやせ細った義父の手を取り握りながら励ましたものです。

 

■夜中の電話

6月に入ってからも週末のお見舞いは続きました。土曜日にいつものように義父の手を握って「お義父さん、来週末もまた来ますよ。テレビ(を利用できるプリペイド)カードも沢山買っておきましたよ。」と告げてきました。

しかし翌日曜日の夜中、病院から電話が来た瞬間、WATANKOは体に電気が走りました。それはWATANKOにとって実父母の時と同じだったからです。

「お義父さんは、夕方から呼吸が弱まり、今はいつ止まってもおかしくありません。」

WATANKOと妻と長男は、車を飛ばして病院に向かいましたが、我々が到着した時には既に義父は事切れており、静かに眠っていました。

やがて義母と義兄も到着し、医師による検分を終えて葬儀業者に連絡、病院から義父を引き取りました。

義母と相談した結果、義父の亡骸は自宅ではなく、葬儀場へ運び込まれ数日後、義母と義兄、それにWAATNKO家だけで家族葬を執り行いました。

お通夜も無く、告別式を済ませて火葬し、それでお終いです。

 

■3人目の看取り

振り返ってみれば冒頭でふれたとおり、義父は優しい家族思いの人でした。そんな義父は自分の終末についても家族に大きな負担を残しませんでした。下半身が動けなくなるとわかると自宅に戻ることをあきらめ、入院中も家族に大した面倒をかけず、8カ月あまりで旅立っていきました。

担当してもらった看護師さんによると、入院中は大した痛みも苦しみもなく最後を迎えられたようです。

お義父さん、良かったですね。そしてありがとう。

 

(あとがきにかえて)

WATANKOはこれで実の父、母に次いで3人目の親を看取りました。

終末に長く色々苦しんだWATANKOの実父母の時と比べると、義父の終末は穏やかで幸せではなかったかと思います。家族への負担も最小限ですみました。何より亡くなる前日まで家族と意思疎通をとることができていたことは義父にとっても、家族にとってもとても良かったことです。

WATANKO自身の終末もまた義父のような形が良いと感じました。

子ども達にそれを伝えるために、エンディングノートに少しばかり書き足しが必要であります。

それと自分自身のその時が来るまでの残り数十年間、悔いの残らない日を一日でも多く過ごしたいものです。

 

 

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