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2019年8月10日 (土)

景気によってふれてくる大学選び

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(子どもの進路は好きに選ばせてあげたい。)

暑い夏の日の昼下がり。WATANKOは妻ミサトと一緒に次男が通う高校に個人面談に出向きました。

次男が通う高校は自宅から徒歩で1516分のところにあるのですが、この猛暑の下で高校までたどり着くのも一苦労です。途中で私よりも先にバテてきた妻には、途中でジュースを買い与えて励ましながら(子どもみたい!)、なんとか高校に到着。担任、次男と我々夫婦で次男の大学進学について初めてのトークを交わしてきました。

 

■景気が悪いと理系が選ばれる

 

現在高校1年生の次男にとって、大学選びの前にまず来年から実施される文系コース・理系コースのどちらかを選択しなければなりません。そこで担任の先生から興味深い話を聞きました。

 

文系・理系の選択は、その時々の景気によってはっきり傾向がでる。景気が悪い時期は理系を選択する生徒の割合が増えるのだそうです。就職活動の際に少しでも有利になるようにというのが動機です。

一方で、ここ数年は好景気が続いてきたので文系を選択する生徒がだいぶ増えてきたとのこと。

 

WATANKOはその話を聞いて以前の長男の進路選びの時のことを想い出しました。

 

■リーマン・ショック後の大学選び

 

時に2012年頃。

 

日本経済は2009年に発生したリーマン・ショックから立ち直ろうとしつつも、その後のギリシャショックや東日本大震災などの影響をうけてしまい、なかなか明確な上昇志向がみられませんでした。

 

WATANKO家では当時、高校生になった長男に関する大学選びの話し合いを始めていた頃です。その頃WATANKOの長男が通っていた学習塾が年1~2回開催してきた進路説明会にて、不景気が続いてくると大学選びにも傾向が出てくることを聞いた記憶があります。

当時言われていことは、リーマン・ショック以降、不景気が続いてきたことが背景にあってか(2012年当時の)大学選びに次の3つの傾向が見られるとのこと。

①現役合格志向

②国公立大学志向

③地元志向

 

そこには大学浪人、学費が高い私立、仕送りの発生といったいずれもコスト負担増を回避する志向がはっきりと見られました。

なおこの時は学部選びにおいても実学系、手に職系といった専門職を目指す傾向がみられるといった話も聞いたことをおぼろげながら覚えています。

 

■好きな進路を選べばいいじゃあないか

 

WATANKOはこういった話を聞くにつけ、率直な気持ちとしては景気によって大学選びが左右される傾向があまりエスカレートしてほしくはないなあと感じます。

もしも子どもが同等の複数の大学の中から選ぶことができる状況にあれば、国公立か私立か、あるいは自宅から通学できるか否かという経済面からみた選択はあっても良いですが、学部選びにおいてまで景気に左右されるというのは如何なものか。

 

景気なんかどうでもいいから好きな学部を選べば良いし、その延長にある好きな進路を選べば良いじゃあない。それができるのも若いうちだけです。

 

こう書くと「無責任なことを言うな。就職できなかったらどうするのか。」という声が飛んできそうですが、そのようなことをいう方は大学とは100%、就職のための予備校だという意識なのでしょうかね。

たしかに選んだ学部、そしてのその先の進路によっては経済的にはあまり恵まれないケースもあるでしょう。そのような時に備えて親は子どもに節約や貯蓄の必要性、そして投資の意義を伝えることが大事であります。

 

たいていの人にとっては大学は一度きり、選ぶ学部もたった一つです。そんな一度しかない選択なのに、目の前の景気の良し悪しだけで文系か理系か、どの学部にするかを選ぶというのはどうも近視眼的な選択ではないかと感じるのはWATANKOだけでしょうか。

 

ちなみにちょっと皮肉ですが景気が良いから文系を選んでもよかろうと考えている親子がいたとしたら、そんな彼らには「景気がいずれ悪くなる時が来るからそれに備えて理系を選んだ方がいい」と逆張り進路選択を謹んでご推奨申しあげます。

 

2019年7月 1日 (月)

最後のキャリアをはじめて1年が経ちましたー好きにやらせてもらいます

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(仲間にアドバイスするWATANKOのイメージかもしれません)

WATANKO50代になって以降、心身を労わりながら最長ケースなら定年まであと10年、出世など気にせず(気にしても今更遅いですが)マイペースで仕事をやっていきたいと思っていました。

 

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ところが1年前、突然の異動によりかつて30歳前後で出向していた経験のある子会社C社に再び出向することになりました。最初の出向から戻って16年。その間に培った経験を全て注ぎ込んでC社を立て直すのがWATANKOのミッションです

 

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■紆余曲折ありのキャリア

 

WATANKOのサラリーマン人生は決して順風満帆ではなく、社内で王道のキャリアを踏んだわけではありませんでした。むしろ傍流もいいところであり、紆余曲折のキャリアでありました。

 

▼入社して最初に配属された部署は希望とは全く異なる部署、そこで我慢がならず3年目になって人事部長に異動希望の手紙を直接送りつけ、部署の上にはかなり睨まれつつも異動を実現させました。

なお振り返ってみればこの最初の所属部署での経験はのちのキャリアで大いに役立つ面があり、感謝の気持ちも後年湧いてきたので、20年後に再び配属された時には自分なりに恩返しをしています。

 

▼念願叶って異動した次の部署では頑張るも、勤務先が業績不振に陥り、WATANKOはリストラにあって前述のC社に出向。この時の出向元の部署に対しては自分を戦力外扱いしたことに憤りを感じていたため、出向が解けた時にはこの部署には二度と戻るまいと固く決意しました。

でも今では当時の上の人達は皆いなくなり、わだかまりは消えています。

 

▼出向からなんとか復帰したあと、とある専門部門の関連部署を3か所、そして海外の子会社への出向も経験し、国内外の子会社の清算や合併にかかわってきたほか勤務先で4年ごとに行われる大イベントについても2回ほど取りまとめ役をこなしました。

この16年間、とりわけ2013年からの5年間は平日の長時間残業と休日の出勤が多くて本当にきつかったです。一時期は鬱になりかけたことさえありました。

 

こうして自分から脱藩したり、会社から三下り半を突き付けられたり、なぜか知らないうちにあれやこれやのタスクに組み込まれたりの会社人生。

27年間で主要な異動だけで9回(うち出向3回)を数えます。平均して3年に1回の異動。会社によっては使えない人材をたらいまわしにしている、あるいは欠員ができた部署に傍流の要員をパッチあてのようにはめ込んでいるかのように見えますね。ハハハハ。

 

■同じ戦場なら有利に戦えるところを選んだ

 

振り返ってみればWATANKOが自分の仕事に対して真剣に向き合いはじめたのは結婚して子ども生まれる一方、C社に出向する羽目になった30歳の頃からです。なんていーちゃらポンなことでしょうか。

キャリアの足しにでもなればと思い中小企業診断士の資格を取りつつも、今の職場でこのまま働き続けるか、思い切って転職するか迷っていた時代。様々な機会を通じて色々な社外の人達と出会ったのもこの頃でした。それはよくある異業種交流会などといった薄っぺらい場ではなく、同じタスクのもとに集い、今後のキャリアを真剣に考えている集団ばかりでした。

 

こうして迷いの時期を経た結果、WATANKOが行き着いた答えは「ビジネスマンである以上、働く場所をいくら変えたとしても、それはどこであっても他社との競争、社内での競争はなくならず戦場であることにかわりはない。ならばこれまでの経験を活かして少しでも有利にゲームを進めることができる今の職場でいきつくところまでやってみるか。」でした。

 

ただし一方で、今の働いている会社が今後も栄えるのか廃れるのかは個人の予測の及ぶ範囲ではありません。かといって転職した先が必ず安泰かという保証もありません。

ですからどこで働こうとも給与所得だけに依存する家計からの脱却を図っておくことが重要です。なにせ勤務先の業績不振時は給与・賞与のカットで家計は大変な目に遭いましたから。

 

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ちなみにこの頃から将来の家計維持にかかわるプランBとして、年老いた父に代わって実家の不動産賃貸業を徐々に継承することを考え始めたわけであります。

 

■最後くらいは好きにやらせてもらいます

 

勤務先は業績不振時のリストラの結果、多くの社員が去っていきました。やがて業績が回復すると今度は慢性的な人手不足が起きました。そんな背景もあってかWATANKOはそれなりに重宝がられ、色々な経験を積んできました。

 

最後のキャリアになるかもしれないこのC社では、WATANKOはこれまでの経験を活かして最後くらいは好きに仕事をさせてもらうつもりです。自分の流儀に合わないことは極力やりません。

勿論ながら長年サラリーマンをやってきた経験から社内、組織の中で自分の我の通し方くらいは学んでいるので、無鉄砲で勝算のない仕事の進め方はなるべく選びません。自分の狙いを着実に実現させてこその仕事です。

 

そのためにはC社の仲間達から共感と協力を得ることが欠かせません。仲間達にはいろいろな仕事のレイヤーでできるだけのアドバイスをしていきます。

WATANKOはここでは「死んだふり」も「出し惜しみ」もしません。ここではそんなことをやっている残り時間はありません。

 

今日からC社での仕事の2年目が始まります。いってまいります。

2019年6月15日 (土)

親の看取り 第3章

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(お義父さん、安らかに。)

男性にとって妻の父はこの世で一番怖い相手の一人にあげる人は少なくないでしょう。しかしながらWATANKOの場合はさにあらず。妻の父はとても優しくて、妻が育った家庭の中では家族を結びつけ、温かく照らす太陽のような存在でした。これはWATANKOが結婚後、妻の家庭を20年以上眺めてきてみえた景色です。

そんな義父はここ数年、頚椎を痛めて首、肩周りにいつもかなりの痛みを負っていましたが、昨年9月、突然体が動かなくなってしまいました。

 

■突然の入院と宣告

義父は自宅がある東京区内の病院に救急車で運びこまれ、即入院です。検査のあとに家族に告げられた事実は、

「前立腺がんの症状が酷くなり下半身はもう動けなくなりました。がんは骨まで転移しており、余命は数カ月です。」

妻、WATANKOそして妻の家族がこの大きな悲しみと向き合いつつも、妻の家族は義母の意向を主として、義父の今後については副作用で苦しむ薬の投与や体に何本もの管を入れるような延命措置をさせることなく、天命のもとに残された命の灯に寄り添っていこうと決めました。

 

■緩和ケア病院への転院

入院して1カ月も経つと、病院側からはやんわりと退院をすすられました。義父が最初に入院したこの病院はあくまで病気や怪我を治す人が入院する病院であり、治療をやめて終末を待つ患者にいつまでもベットを与え続けるわけにはいきません。

家族で今後の介護について相談したところ、80歳を超える義母一人では下半身が動かない義父の世話を一から十まで見ることは現実的には不可能であり、また同居する妻の兄も仕事に出ずっぱりで介護には関われません。

そこで病院から紹介された医療ソーシャルワーカーに相談した結果、自宅からなるべく近いところで緩和ケア(終末医療)を専門とする病院を探して、そこに転院することにしました。

幸い自宅から数キロ離れたところにベットの空きがある緩和ケア専門の病院を見つけたので、11月に転院をすませました。緩和ケア専門の病院では数カ月で終末を迎えそうな患者に対して、積極的な延命治療は行いません。痛み止めの薬を投与したり、呼吸困難になれば酸素吸入をするくらいです。自ら経口で栄養がとれなくなった場合、家族の意向によっては点滴すらも行いませんから、当人はみるみる骨と皮だけとなって衰弱していきます。

 

■毎週末、お見舞いに通う日々

妻とWATANKOは義父に対して9月に最初に入院してから以降、毎週欠かさずお見舞いにいきました。妻は毎回、義父に色々な食べ物を持っていき食べさせていました。病院食には食欲がわかない義父でしたが、娘が持ってくる飲食物だけは少しでありましたが、喜んで食べました。

この他にも妻は手や足の爪を切ってあげたり、WATANKOは電動髭剃りで髭を剃ってあげたりと、できることはごく限られていましたが義父の世話を続ける毎週末でした。

また今年の正月には介護タクシーを利用して、義父を自宅に半日ばかり連れて行きました。そこでは義父が好きな料理とお酒を振る舞いました。

その後、義父は2月に入って一度呼吸困難を起こすも、それを乗り切ると小康状態が続きます。すると3月末になって緩和ケア病院からは、再び転院を勧められました。病院側からみれば当初想定した期間よりも長く延命しそうな義父の様子をみて、もっと長期間入院できる緩和ケア専門病院に移ってほしい態度がありありでした。

次に紹介された病院は湾岸地域に4月開院したばかりの新設病院であり、早速の転院となりました。義父にとって3つ目の病院は新しくて綺麗であり、入院患者がまだほとんどないためか看護師さんの対応も手厚いです。

ここでなら入院期間が長くなっても大丈夫な状況となりましたが、一方で義父はこの時点では食べ物をほとんどとらず、毎日水分と栄養剤を摂るのがやっとという状態まで衰弱してしまいました。

それであっても毎週末にお見舞いにいけば、意識がはっきりした義父からはお見舞いに来てくれたことに感謝されました。妻もWATANKOもやせ細った義父の手を取り握りながら励ましたものです。

 

■夜中の電話

6月に入ってからも週末のお見舞いは続きました。土曜日にいつものように義父の手を握って「お義父さん、来週末もまた来ますよ。テレビ(を利用できるプリペイド)カードも沢山買っておきましたよ。」と告げてきました。

しかし翌日曜日の夜中、病院から電話が来た瞬間、WATANKOは体に電気が走りました。それはWATANKOにとって実父母の時と同じだったからです。

「お義父さんは、夕方から呼吸が弱まり、今はいつ止まってもおかしくありません。」

WATANKOと妻と長男は、車を飛ばして病院に向かいましたが、我々が到着した時には既に義父は事切れており、静かに眠っていました。

やがて義母と義兄も到着し、医師による検分を終えて葬儀業者に連絡、病院から義父を引き取りました。

義母と相談した結果、義父の亡骸は自宅ではなく、葬儀場へ運び込まれ数日後、義母と義兄、それにWAATNKO家だけで家族葬を執り行いました。

お通夜も無く、告別式を済ませて火葬し、それでお終いです。

 

■3人目の看取り

振り返ってみれば冒頭でふれたとおり、義父は優しい家族思いの人でした。そんな義父は自分の終末についても家族に大きな負担を残しませんでした。下半身が動けなくなるとわかると自宅に戻ることをあきらめ、入院中も家族に大した面倒をかけず、8カ月あまりで旅立っていきました。

担当してもらった看護師さんによると、入院中は大した痛みも苦しみもなく最後を迎えられたようです。

お義父さん、良かったですね。そしてありがとう。

 

(あとがきにかえて)

WATANKOはこれで実の父、母に次いで3人目の親を看取りました。

終末に長く色々苦しんだWATANKOの実父母の時と比べると、義父の終末は穏やかで幸せではなかったかと思います。家族への負担も最小限ですみました。何より亡くなる前日まで家族と意思疎通をとることができていたことは義父にとっても、家族にとってもとても良かったことです。

WATANKO自身の終末もまた義父のような形が良いと感じました。

子ども達にそれを伝えるために、エンディングノートに少しばかり書き足しが必要であります。

それと自分自身のその時が来るまでの残り数十年間、悔いの残らない日を一日でも多く過ごしたいものです。

 

 

2019年6月 6日 (木)

クレジットカード解約の面倒臭さで気がついたこと

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(嗚呼、面倒臭かった日曜日の朝)

 

ある日曜日の朝、WATANKOの自宅の近くに住む叔父夫婦が訪ねてきました。聞けばクレジット会社から謎の通知が来たのでどうしたらいいか教えてほしいとのこと。

通知をみると、それは叔父名義の新しいクレジットカードの有効期限切れが近づいてきたので新しいカードが送られてきた通知でありました。(ということすら把握できないほど叔父夫婦は老いている状態であります。)ついでにそこには後日、年会費を請求する旨のお知らせも同封されていました。

 

叔父は8年前にクレジットカードのキャッシングかリボ払いかで1,000千円近い借金の残高をこさえてしまいました。

叔母はこれに対して、70歳を超えて年金だけでやっとこさ暮らしているのに借金とは何事かと大激怒でした。(・・・以下は悲喜こもごものエピソードが20くらいあるのですが、身内の恥さらしになるので割愛します・・・。)

叔父曰く、この騒動の時にクレジットカードは処分していたと記憶していたのになぜまた送られてきたのか不思議がっている様子。

WATANKOとしては叔父の記憶の正否を確かめようとしても認知症の気配が見られる当人からの聴取では限界があり、ともかくも老いた叔父を手伝ってカードの退会手続きをさっさと済ませようとしました。

 

まずはクレジットカード会社の通知に書かれた事務手続き連絡先の電話番号にかけてみました。

するとそこでは音声ガイダンスに従って本人確認、次にサービスメニューの選択をしなければなりません。そのステップの多さ、冗長さゆえに面倒臭くなってうんざりです。まるで変更の手続きを拒むためにわざとそうしているかのようにさえ思えてきます。自分名義のカードでないと尚更そう感じます。

 

それでも忍耐強く手続きを続けると結局行きついたのはオペレーターの電話応対待ち。なんとここから応答待ちの状態は延々30分近くも続きます。

まてよ、この通話は私のスマホから掛けているし、この間も通話料金はかかっている。一体いくらになるのか、この通話料金!だいたい今日は日曜日、オペレーターは本当に出社しているのかとさえ疑うようになり、一旦通話を切りました。

 

今度は通知に書かれた別の電話番号に固定電話からかけ直しました。またまた面倒臭い本人確認とサービスメニューの選択・・・。もはやインドの修行僧の域です。そうしてたどり着いた先はカードの暗証番号入力。しかし叔父本人には暗証番号の記憶はなし。嗚呼、万事休すか。私の忍耐どうしてくれる。

 

次にクレジットカード会社のHPから別の連絡先がないか探す。しかしあるのはメールでの問い合わせフォームだけ。あとは足しになるのは「よくある質問コーナー」くらいだ。各種変更手続きのコマンドもあるがここにログインしようにもやはりパスワードが分からず断念。

 

結局、なんとか退会届フォームをダウンロードして、住所・氏名・電話番号・カード番号等を記載の上、郵送で届け出て、解約手続きを済ませました。

 

しかしおそらくは同封されていたお知らせのとおり年会費1,300円の請求は後日来るでしょうが、それは支払ってもらうほかありません。叔父曰く毎年、年会費の請求はきていなかったと言っていますがこの辺りの真偽を確かめようにもクレジットカード会社とのやりとりが面倒臭すぎます。なにかまた通知がくれば都度相談にのるということでおさめてもらいました。

 

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

老齢になり、いよいよ終活を視野にいれるようになると自分が定期的に支払い義務を負う契約については遺漏なく取り出して、なるべく減らしていくべきであります。

 

借入金は勿論のこと、

今回の事例のような年会費もの

アマゾンプライムのような定額サービスもの

浄水器の取り換えカードリッジのように定期的に送られてくる物品

等々

 

丸1~2年間の自分の所有口座から引き落とし記録やクレジットカード会社他から送られてきた請求記録を丹念にトレースしていき、自分が定期的に支払い義務を負っているものを把握します。中には老齢になればもう不要になるサービスが出てくることでしょう。それらは頭がシャッキリしているうちに忘れずに解約しておくべきです。また利用の優先度や頻度が下がるサービスがでてくることでしょう。それらも解約あるいは多少割高でも利用の都度払いに変更して何時でストップできるようにしておきたいものです。

 

これら定期支払いもののうち、最後に残るのは電気・ガス・水道の公共料金と電話代とインターネット通信費関連(プロバイダ費用、ケーブル費用)、後は人によっては家賃くらいでしょうか。これらも自分は認知症他病気になったり、不意の怪我等で正常な意識が保てなくなった時にそなえて、契約にかかわる情報をあらかじめ整理し自分の世話をしてもらう人にすぐ開示できるようにおくことが大事です。

 

そうそうSNSのアカウントももういよいよ晩年となったら削除しておく方が無難でしょう。規約が変わってあとで課金が発生したり・・・ということが起きるかどうかは不明ですが、おそらくfacebookの貴方のアカウントを見てくれる同年代の友人知人は、晩年ではもうほとんどいないはずです。

 

(あとがきにかえて)

人生の終盤になった貴方にとって社会、自分以外との接点は経済的なつながりでも、バーチャルなつながりでもなく家族など身近な存在、地域の人達とのつながりかもしれません。

毎日ご飯を美味しく食べて、家族と笑って過ごし、ご近所とちょっと交流。そうですね、あとは動物が傍にいるとよいかもしれません。

 

それとWATANKOの場合、自宅の車庫にはもうあまり乗ることがなくなったスーパーカーが少し埃をかぶっておさまっているかもしれません。

2019年5月 8日 (水)

今年のGWはリタイア生活に向けて必要なことを確認した10日間

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(皆さんのGWはいかがでしたか)

GWの10連休が終わりました。WATANKOはこの10日間、仕事を忘れて好きなことや、忙しくてできなかったことを沢山片付けることができてとても満足でした。それはあたかもリタイア生活を疑似体験できるひとときでもありました。

 そして来るべき充実したリタイア生活に向けて必要なことをいくつか確認することができました。

 

1.健康

行動力に溢れたリタイア生活を送るためにまずもって心身の健康が必要です。たとえ大きな疾患を抱えていなくとも、例えば腰痛や頭痛にいつも悩まされている人であれば、当人の行動力は削がれてしまうことでしょう。

 

2.シンプルライフ

物を沢山持っていることイコール失くし物を増やすことにつながります。シンプルライフのためにはハード面では貯まりまくった書類と衣類、そして雑貨を捨てることです。ソフト面では冠婚葬祭やなにがしかの義理のために続いているお付き合いを見直すことも良いでしょう。

 

3.好きなもの

自分が没頭できる好きなことを見つけることです。それは必ずしも新しく見つけることだけではなく、これまでの人生の中で興味・関心を持てたことを思い出し、そこに時間とお金を投じてまた熱中するといった方がよくあるパターンかもしれません。

 

4.情報

新しくできた商品・サービス、興味をそそるスポット、便利になった世の中の仕組み等々について常にアンテナを張って情報を入手することです。新聞やテレビで気なる情報を得たらネットで詳しく調べてみる。

 

5.お金

世の中、物質的な豊かさを追求しようと思うなら、お金が必要なことはいうまでもありません。必要なお金は貯蓄で溜めるか、投資で増やすか、はたまた生涯現役で稼ぐか。

 

6.家族と友人

これは他の項目と異なり、ひとりひとりにとって非常にユニーク(固有)なものであり、あとから増やそうとしてもなかなか難しい面がありますので、今、あなたと取り巻く両親、パートナー、子ども、学校時代の友人、趣味を通じた仲間等々はとても大事にする必要があるでしょう。

 

7.サムシング

上記1~6以外に各々にとって大事である、欠くべからずであるというサムシングがあればそれも忘れてはいけません。それはひょっとしたら1~6の中で欠けているものを補ってくれる存在かもしれませんね。

 

これらを十分に備わってこそ、楽しい老後ができます。(老後を過ごしたこともないくせに良く言えるな、というツッコミはあるかと思いますが・笑)

 

WATANKOは今回の10連休でこれらについて、あるものは体験し、あるものは将来にむけた準備をしてきました。

★健康でないと毎日遊びにも出かけられません。したがって軽い運動を毎日行いました。

★シンプルライフのために断捨離を実行。特に今回は衣替えに伴って冬物をたいぶ捨てました。

★好きなドライブを楽しみました。駄ブログでも楽しい車記事をUPしていました。

★興味ある本やスポットの検索を行い、本を随分と買ったり、出かけたりしました。

★お金については足代・飯代その他でもって今回の10連休で総額150,000円くらい使いました。

★妻や子ども達と過ごす時間がタップリ取れました。家族の笑顔を眺めているときはとても安らぎます。

 

最後のサムシングですが、それはWATANKOの場合は何になるのか。これからそれを見つけるのも楽しみであります。

 

(あとがきにかえて)

妻ミサト「サムシング・・・!?それはひょっとしてペットかしら。それとも・・・例えば愛人かしらね。」

WATANKO「ははは、ご冗談を。何をおっしゃいますやら。」(滝汗)

2019年4月 6日 (土)

春の到来を楽しみたい

【3月8日終値ベース運用状況速報】

 

■投資元本(待機資金含む)

 

150,000千円

 

■評価損益(分配金・確定損益・税還付込み)

 

63,379千円

 

■損益率

 

42.3%

 

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WATANKOは地方都市暮らしなので、都会に比べれば多くの自然に囲まれて暮らしています。春を迎えれば冬の無色透明な世界から一転して、色と香りと音に囲まれた暮らしが始まります。

 

朝は鳥のさえずり、たまにウグイスが鳴いてきて起こしてくれます。目覚まし時計は要りません。

 

日中、花であれば桜が咲き、やがては椿やその他の花が咲き乱れます。新緑も目立ちはじめ、これら花と草木が香りを発して生活の周囲を包み込みます。

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自宅の庭先では蜜蜂やモンシロチョウ、キチョウが飛び交い、時にはアゲハ蝶も見かけます。それらの様子を眺めているだけで一刻が過ぎてしまいます。

 

夜は、天を見上げるとオリオン座や北斗七星をはじめとした星々がはっきりと眺めることができ(無料のプラネタリウム)、地ではそばの田んぼからカエルの鳴き声の大合唱が聞こえ生き物の躍動を感じます。

 

こうして自然の様々な息遣いに触れていると、職場での悩み事や不動産賃貸のトラブルからくるストレスで疲れた心が癒されてきます。さらには目の前に立ちはだかった悩み事やトラブルに立ち向かってみるかと元気が出てきます。

 

そういえば今月末からGW10連休がスタートします。ここ5年は仕事柄、半分くらい休日出勤していましたが、今年は久方ぶりに全日休暇がとれそうです。

 

早朝、日の出とともに起きて軽くドライブに行き、朝食のあとは庭先でテーブルとリクライニングチェアーをならべて読書でもしながらのんびり過ごし、グリルで肉でも焼いてランチにする。夕方になれば、風呂に入ったあと夕涼み、さらには星空を眺めながら少しだけお酒を飲んで一日を終える。

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今年はこんな風に自然に囲まれたつつましい暮らしを送りたいと考えています

 

(あとがきにかえて)

 

妻ミサト「あーたしかに春になると庭先で雑草がみるみる伸びたり、スズメ蜂が軒下に巣をつくろうと飛び回っていたり、野良猫が活発に動きまわって芝生に糞をしたりと生命の息吹を強く感じますわ。庭のメンテナンスで忙しくなるシーズンが始まるわね。よろしく。」

 

WATANKO「・・・ハイ」

 

 

2019年3月22日 (金)

近所の葬儀の手伝いも楽になったもんだ


WATANKOが住む地方都市は、ザ・田舎の風習がまだ一部に残っています。15年前に実家の敷地内に新居を建てて住み始めたころから、実家が属していた隣組のお付き合いを行っています。そのひとつに同じ隣組の家で葬儀があれば、その手伝いに出るという相互扶助です。

その葬儀の手伝いも近年はだいぶ楽になりました。とくに次の3点の簡略化が目立ちます。
(注:なお以下の内容はあくまでWATANKOが住む地域での内容であり、他の地域によっては色々と異なる部分もありますことご了解ください。)


1.御葬儀記録帳のカード化

昔は弔問客の受付にて、各人に記録帳に一人ずつ住所、名前などを記名して貰う一方で、受付の背後にある帳場の手伝いがそれを受け取り、御香典の記録帳(名前と金額)を同時に作成していました。
弔問客に書いてもらう記録帳と、御香典等の記録帳の2つを作成するという手伝いにとって非効率でミスが生まれやすい方式でした。弔問客にとっても混んでくると記帳のために並んで待つことになり、面倒でした。
それが10年くらい前からはカード方式に変わりました。弔問客は受付に行く前に、自分で名前、住所をカードに書き込み、御香典等と一緒に出すだけです。それを受け取った帳場を御香典等の中身の金額を取り出し、封筒に記載された金額との一致を確認後、カードに金額を追記して、カードホルダーにファイリングします。
これならば複数の弔問客が同時に記帳することが可能で、受付は迅速に進みます。受け取る帳場もカードに金額を追記するだけなので大変楽です。


2.帳場の金額合わせが不要

以前はカード方式であって御香典等の紙幣を封筒から取り出してまとめます。そして各カードに書かれた金額の合計と、取り出してまとめた紙幣の合計が一致するかチェックします。もしもここで2つが合わないとなると、個々の封筒に記載された金額と記帳カードの金額とのチェックにまでさかのぼって確認しなければなりません。それでも合わないとなるともうお手上げであり、非常に気不味い状況になります。
葬儀業者は葬儀の段取りと当日運営をキッチリと行いますが、この御香典等の受領、集計、喪主への引き渡しだけは全くタッチしません。ここだけは手伝いの責任のもとにやらなければなりません。
これについて最近は、御香典等を受け取った際の紙幣の金額と封筒に記載の金額が合致していることをチェックしたら、紙幣は封筒から出さずに封筒ごとそのままを箱に入れてまとめてしまいます。
つまり紙幣とカード記載額の合計の合致のチェックは不要となり、葬儀後にそのまま喪主に引き渡してしまいます。


3.出棺見送りで解散

以前は告別式のあと、葬儀場から火葬場へ向けて出棺すると、手伝いも火葬場まで一緒に移動し、そこで荼毘に付した後、さらにお墓まで移動して、納骨するところまでずっと付き合いました。(納骨は家によっては別途後日行うケースもわりとありましたが・・・)
さらに納骨が終わると別の会場に移動して、そこで喪主から手伝いに対する振る舞いの会食が執り行われます。
ここまでやると告別式から会食までほぼ一日仕事になります。手伝う側は実はグッタリです。
それが最近はさすがに手伝い達をそこまで拘束するのは気の毒であると、喪主家族が思い始めて、今では葬儀場から出棺するところを手伝いは見送り、そこで仕事完了となりました。
手伝いにとって拘束時間は以前の半分程度まで減少するので、これはだいぶありがたかったです。


■そもそも、もう手伝いはほとんど不要

伝聞の限りではありますが、かなり昔は、葬儀を当人の自宅で執り行うことが一般的でありました。その場合、色々な裏方仕事をこなす人は一定する必要となり、同じ隣組からら集まった人たちでてんやわんやでありました。

それでは現在ではすっかり葬儀業者任せになり、残された手伝いで担当する仕事は受付と帳場まわりだけ、それも段々と合理化されてきました。

実は先日、同じ隣組のおじいさんが亡くなり、WATANKOは昨夜はお通夜、本日は告別式の手伝いに出向いていました。同じ隣組での葬儀はかなり久しぶりであったのですが、そこでは今や前述の1~3も含めて手伝いの役割は限りなく縮小されていることを実感しました。

「みんな、集まってもらったけど、手伝うことはほとんどないよね。」


もはや手伝いはほとんど不要とさえ言えるのかもしれません。それではなぜ隣組から人が集まるのかとういうと、それはもう葬儀のたびに顔合わせをすることで親睦を深めるくらいしか意義を見出せないのでした。

更に10年、20年と年月が経てばどうなるでしょうか。もはや葬儀の手伝いという風習も消え去るかもしれません。


2019年2月24日 (日)

(続)コンビニを人生のビークルにした人たちの選択-父の愛はコンビニを残す

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(前回からの続きです。)

前回、コンビニを出店したWATANKOの高校の同級生の一連の顛末を記事にしました。それは「コンビニ経営は何かと大変」という通説のエビデンスとなったひとつの事例であります。

この他にもWATANKOの周囲には同級生の事例程詳しくは知りませんが、同様にコンビニの経営に苦しんでいる話をチラホラ聞きます。

しかし一方で、それではコンビニを経営するほとんど全ての人が苦境の中にいる人たちばかりなのでしょうか。コンビニとはオーナーをただ蝕むだけでの存在なのでしょうか。

今回はWATANKOが知り得たもうひとつの詳しい事例を紹介します。

■偉丈夫な紳士

WATANKOの母は大正生まれです。かの時代は家族の中に沢山の兄弟姉妹がいたものです。WATANKOの母もまた同様で、本人は8人兄弟姉妹の長女でした。母は沢山いる兄弟姉妹の中で末っ子の四男とは特に親しく、その四男はしばしばWATANKO家を訪ねてきていたことをWATANKOは幼い頃からよく覚えています。

その四男はWATANKOからみれば母方の叔父にあたります。WATANKOがみたその叔父、河田さん(仮名)の印象は色が黒くて体が逞しく、元気みなぎるオジサンでありました。

まさに「偉丈夫」という言葉がピッタリ合う人です。さらに逞しさだけでなく知性や礼儀も垣間見える紳士な人でありました。

WATANKOはその後家を出てからは河田さんと会う機会はほとんどなくなりましたが、両親が亡くなり家督をついで以降、母方の冠婚葬祭(といってもほとんどが葬儀か法事です。)で再びよく顔を合わせるようになりました。

会えば母の思い出話を含めて昔話を聞いたりするのですが、やがて河田さんの家庭の事情を聞く機会もポツリポツリとありました。以下はその内容です。

■定年後のコンビニ出店

河田さんは学校の卒業後に教師となり、最後には校長先生まで勤めました。教師という職業の中では十分に出世した方でありましょう。道理で彼からは知性と礼儀が漂ってきたわけです。

8人兄弟姉妹の末っ子だった彼は跡継ぎの男がいない家系の家に婿養子として入りました。家制度が風習として残る50~60年前の田舎ではよくあることです。

彼は奥さんとの間に4人の息子ができました。彼からは家族6人で海外旅行に行った思い出話などをよく聞かされており、そこからはひとりひとりをとても大事に育ててきた様子がうかがえました。

やがて1990年代に入り河田さんは定年を迎えると、彼が第二の人生として選んだのはコンビニエンスストアの経営でした。国道沿いに面した自宅の敷地内は十分なスペースが残っており、そこにコンビニ店舗を建てて商売を始めたというわけです。

河田さんが住む街は田舎であり、1990年代に入っても国道を挟んで両脇は畑が広がるという風景です。そんな中にあって彼がフランチャイズ契約したコンビニは大手に次ぐ中堅クラスで当時の商品力はそこそこでしたが、出店した途端にとても繁盛したそうです。

なにせ周辺には何もない田園エリアにて、食品含めた日常品が揃っている店は地元の人々が渇望していたようです。あまりの繁盛ぶりに、これに目をつけられて強盗に入られるなどの被害も早速おきたとのことでした。

まさにブルーオーシャンな出店でありましたが、良い時期が永遠に続くはずもありません。やがて年月が経ってくると河田さんの店の繁盛ぶりに目を付けた競合の大手コンビニチェーンがオーナーを募り、彼の店から1~2km圏内にどんどん出店してきました。

その結果、河田さんの店の売上は減少の一途をたどることになります。

■河田さんのコンビニの事情

河田さんのコンビニの運営にあたっては本人と奥さんだけでなく、4人の息子たちのうち、長男と次男が手伝っていました。出店当初はアルバイトも結構雇っていたのですが、売上減少に伴い、その数を減らしており、2000年代に入ってからは必要最低限に絞り込んでいた模様です。

つまりは家族4人がメインとなり交代制でコンビニを経営しているわけです。これが人件費を抑えて店舗を運営できる強みとなっており、売上が減少する中にあってもコンビニを続けることができる要因となりました。

実際のところ、河田さんの店を含めた近隣のコンビニとの競合状況においては一人勝ちするところはなく、お互いがそこそこの集客、売上を確保している状態でした。

そうなると人件費を抑えることができる河田さんの店と異なり、アルバイトの人件費に苦しむ他店の中には閉店するところも出てきました。やがては各店とも均衡状態を保っている様相となりました。

ここで河田さんの4人の息子たちについてちょっと触れます。

河田さんの4人の息子はいずれもWATANKOより少し年下ばかりであり、このうち三男と四男はサラリーマンとなり実家を出て、家庭を持ち独立した暮らしを送っています。

とくに三男は幼いころに河田さんによく旅行につれていってもらったことがきっかけで旅行好きになり、旅行代理店に就職しました。河田さんがWATANKOにこの話をするときの彼の嬉しそうな顔は今でも忘れられません。

しかし長男と次男は学校卒業後に一旦は就職するもうまくいかず、二人とも勤め先を辞めて実家に引きこもってしまいました。そこで河田さんは二人にコンビニの経営を手伝わせています。

WATANKOが40歳を過ぎた長男、次男に実際に会ってみると会話どころか挨拶一つできない引きこもりな二人でした。それでも長年コンビニで働いてきたためか、店頭での接客はそこそこできています。まあこれも河田さんの教育があってこその結果でしょう。

■子ども達のためにコンビニを残す

さて2010年代にはいると河田さんも寄る年波には勝てず、体調が段々とすぐれなくなってきます。やがて奥さんに先立たれ、自身もその数年後に病気を患ってしまいます。

偉丈夫であった河田さんの身体は盆暮れに会うたびに段々と痩せこけていきます。それでも彼はコンビニの仕事を引退することなく通院を続けながら働き続けましたが、ある年の冬、とうとう力尽きてこの世を去りました。

WATANKOは河田さんの葬儀に参列したのですが、そこで式を取り仕切っていたのは実家で河田さんと一緒に暮らしていた長男、次男ではなく、離れて暮らしていた四男でありました。WATANKOからみれば長男、次男とも一切なにもせず(できず)ただただオロオロするばかりでありました。

WATANKOは「最後まで君たちのことを心配していたお父さんの葬儀なのだから、せめて集まってくれた人たちにお礼の挨拶まわりくらいはやらんかい!!」と心の中でイラっとしながらその様子を眺めていました。

河田さんは息子達をとても大事に育ててきました。しかしあえてWATANKOから厳しいことを言わせてもらえれば、その愛情は息子達を甘やかし、自立を損なわせてしまった一面があったかもしれません。

いい大人になっても父親の世話にならないと生きていけない息子達・・・。でも河田さんはそれもまた自分の責任と感じて、自分がいなくなっても長男と次男がなんとか暮らしていける手段を考えていたのではないでしょうか。

そこで河田さんは自分の老後のためだけでなく、他所で働くことが難しくなってしまった長男と次男のために、コンビニを始めたことがうかがえます。

自宅のすぐ隣に店舗があり、仕事はマニュアルに基づき決められていることをこなせばよい。兄弟が交代で店番をすることで長時間労働もある程度緩和できます。専従者給与や各種保険をはじめ様々な出費を経費とすることで税金負担も軽減できます。食費に事欠けば最悪、廃棄弁当を食べてでも飢えをしのげます。

コンビニという強固な小売業システム、これを守っていけばある必要最低限な家計生活を送ることができるわけです。

河田さんは自分がいなくなった後、長男と次男の生活の糧となる仕組みとしてコンビニを選んだのでした。

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やがて河田さんが亡くなって1年後に一周忌が執り行われました。

WATANKOが出席するとそこでは1年前とはうってかわって一周忌を取り仕切り、挨拶も立派にこなす長男、次男の姿がありました。

「河田さん、あなたの子ども達は貴方が亡くなった跡を無事継いで、徐々に自立への一歩を踏み出しているようです。」

WATANKOは仏壇に飾られた河田さんの写真を前に手をあわせつつ、彼に安堵の気持ちを伝えるのでした。

河田さんが残したコンビニを長男と次男がいつまで運営していけるのかはわかりませんが、一日でも長く続けてもらいたいものです。

■コンビニは人生のビークル

前回記事から述べている通り、コンビニの経営は決して楽な仕事ではありません。

▼集客は立地の良し悪しでほとんど決まってしまいます。

▼たとえ繁盛してもオーナーの手元に残る利益は限られています。

▼アルバイトが雇えなければオーナーは長時間労働を強いらて心身の健康を害します。

▼接客上や近隣とのトラブルも時には起こりえます。

前回の記事では酒店専業のリスクの回避策として始めたコンビニですが、その経営の負担が大きくボロボロになり切ってしまう前に方針転換した事例を紹介しました。

また今回はコンビニとは経営は大変だけれども、他に生活の糧がない人にとっては頼れる小売業システムである点にスポットを当てました。

街中にあふれているコンビニ。

WATANKOは例えば同じチェーン店であっても店舗ごとに繁盛しているかそうでないかを観察しつつ、その裏に透けて見えそうなオーナーのコンビニ人生を想像しながら買い物を済ませるのでした。

2019年2月23日 (土)

コンビニを人生のビークルにした人たちの選択

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(コンビニ経営は大変です。)


脱サラ後の生計の建て方あるいは自営業の商売変えの選択肢のひとつとしてコンビニエンスストアが挙げられます。

コンビニエンスストアのオーナーは、大手コンビニチェーンのフランチャイジーとして、有名なブランド、売れ筋の商品の供給、効果的な販売管理システムを強みに、自己資金または借入金によって店舗を建て、自らがオーナー(又は兼従業員)となって最先端で利便性の高い小売業業態を運営します。

しかしその実態はチェーン本部に支払うロイヤリティの負担が大きい、商品仕入れやキャンペーンにおいて様々な協力を強いられる、収益面からみて人をたくさん雇えないのでオーナーが長時間労働せざるを得ないといった事態に直面するという過酷な話が以前から伝えられています。

先日も24時間営業を続けることができなくなったコンビニ店のオーナーが話題となりました。

参照記事

2月20日付 Yahoo!JAPAN ニュース 
「もう限界…」自主的に24時間営業をやめたコンビニ店オーナーの判断に波紋

上記記事にて取り上げられているオーナーに関しては、苦境に陥るに至る特有の事情があったことの他に、別の記事によるとオーナーの素行についての問題を指摘する声も出ています。

記事内容の件では、オーナーとコンビニ本部とのどちらに非が多いのかはさておき、WATANKOはコンビニのオーナーがいかにきつい職業であるかということを久しぶりに思い出しました。

というのも以前、高校の同級生がコンビニを経営していたからです。

■酒店をコンビニに変更して出店

WATANKOは地方都市の公立高校に通っていましたが、そこで親しかった同級生の一人、石田君(仮名)は高校卒業後に大学を経て、酒屋にて数年間修行を積んだのち、20代後半でコンビニのオーナーとなりました。

もともと石田君の実家は隣街で長年、農機具販売兼酒店を経営しており、彼の母親が店を切り盛りしていました。親の影響があったからか石田君自身も酒店の商売をやりたい意向があり、他店で修業したのち、地元で店を開く運びとなったわけです。

石田君としては、こだわりの日本酒とワインを中心とした個性的な品ぞろえの酒店を当初目論んでいました。

しかし彼の母親は当時、酒の販売は競争を制限する規制が徐々に撤廃され、その結果、将来は競争が激化することを見越していました。そこで石田君が先々も安泰して商売を続けるためには単純な酒店だけではリスクがあると判断し、出店についてはコンビニ業態を選ぶことを強く勧めました。

石田君は母親の提案に当初は難色を示しましたが、コンビニの店舗建築費用を含めた開業資金は彼の実家がスポンサーとなっているため拒絶もできず、「こだわりの日本酒やワインも置いてあるコンビニ」として出店することで折り合いを付けました。

こうして1990年代半ばに石田君のコンビニエンスストアのオーナーとしての人生がスタートしたわけです。

■一国一城の主

石田君のコンビニ出店の際には、新築した自宅兼店舗のお披露目にWATANKOを含めた友人達が招待されました。新興住宅街の中心近くで交通量が多い交差点という好立地、駐車場スペースが十分にとれる敷地内に二階建てが建てられました。

二階建ての一階はコンビニ、二階は居住用という造りで室内は広いです。通勤時間に囚われることにも無縁であり、彼のビジネス、プライベート両面の洋々とした今後の様子を当時ひしひしと感じたことを、WATANKOは今でも覚えています。

もちろんこれらの環境は、石田君自身であつらえることができた部分は限られており、彼の実家の資金と様々なツテによるものであることはいうまでもありません。

それであっても石田君はこの時点で一国一城の主なのです。

一方のWATANKOはしがない給与所得者。当時勤務先は業績低迷で給与は減少。持ち家もなく狭い社宅暮らし。実家は不動産をいくつか所有していますがどれも田畑であり、自営の農業に供しているにすぎませんでした。(WATANKOが不動産投資を自ら手掛ける以前の話です。)

WATANKOは当時、「30歳前にして、随分と差をつけられたな」という気持ちでした。

10年くらい経ったら、石田君とWATANKOとの間に経済的にはどれだけの開きが出てくるのだろうか、やはりサラリーマンは安定しているかもしれないけれど大儲けできる職業ではないないなあと漠然と思いました。

ところが10年どころか4~5年も経つと状況はWATANKOの予想から随分と外れてきたのです。

■コンビニ経営の誤算

石田君がコンビニを出店した当初、すぐ隣では大型商業施設の建設工事が始まりました。すると工事現場で働く職人達が大勢、彼のコンビニにやってきて弁当や飲み物、休憩中等に読む雑誌等を買ってくれました。おかげでコンビニの経営は順調な立ち上がりとなりました。

しかし大型商業施設が完成すると、職人達の来店はパッタリと途絶えます。さらに大型商業施設の出店に伴い周辺の交通量が増え、そこに目を付けたコンビ二他社が軒並み出店攻勢をかけてきました。

石田君が契約したコンビニチェーンは大手トップクラスのチェーンに比べるとマイナーであり、商品力は見劣りします。もともとこだわりの酒類をおくことが出来るという自由度が高い条件でフランチャイズ契約が締結できること、そしチェーン本部に支払うロイヤリティが比較的少ないことを条件に選んだチェーンでありました。

しかしそれは一方で、競争が激化してきた場合のサポートが大手に比べて期待できないことを意味します。石田君としてそこはこだわりの日本酒やワインを揃えることで商品の差別化をアピールする作戦でありました。

しかしたしかに日本酒とワインの品揃えは値段がリーズナブルであることも含めて十分に魅力的でありましたが、まだ十分な固定客を得るまでに至らず、コンビニの売上の補完役としては不十分でありました。

ビジネスの教科書に載っているSWOT分析でいえば、「機会」(工事現場の職人達)が無くなる一方で、「脅威」(大手の競合コンビニ)は増える。チェーンの商品力やサポートは相対的には「弱み」であり、「強み」として据えていたこわだりの日本酒やワインはいまだその魅力を十分に発揮できていませんでした。

コンビニに限らず小売業というのは商品の利幅は決まっているので、売上減少は即、死活問題であることはいうまでもありません。

■さらなる追い打ち

石田君のコンビニには売上減少だけでなく、内部的にも苦労を重ねていました。

石田君が契約していたコンビニチェーンの営業時間は7:00~24:00。コンビニだから仕方がないといえばそれまでですが、それにしても長時間に及びます。本来であればパート、アルバイトを雇って昼夜交代勤務のシフトを敷くべきところですが、売り上げが低迷している石田君の店の場合、パート、アルバイトを十分に雇うことができません。

したがって最後は石田君自身が長時間労働に従事することになります。彼はもっとも長いケースでは、朝7:00に店を開けて少したったあと、数時間の仮眠をとる以外は食事時を除いて24:00までずっと店頭に出っぱなしです。

さらには24:00に閉店したあともバックオフィスにこもって売上の集計、在庫の確認、商品の発注作業など翌日の営業に向けた準備作業が数時間続きます。そのあとにようやく就寝。数時間後にはまた開店時間となります。

これらを合わせると彼は一日のおよそ3分の2は働きづくめということになります。

またコンビニを日々営業していると販売上の様々なトラブルにも出くわします。例えば子どもが万引きすれば親の呼び出し、時には学校や警察への連絡沙汰となり余計な労力をとられるばかりです。

あげくの果ては石田君には当時、年下の彼女がいて半ば同棲していたのですが、石田君は費用面でパート、アルバイトが雇えない代わりに彼女に店を手伝わせていたのです。しかもただ働きです。これにはとうとう彼女も嫌気がさして石田君とケンカしたうえで出て行ってしまいました。

WATANKOは深夜閉店後に度々石田君と会いましたが、会うたびに彼は顔色が悪くなり、髪も髭も伸び放題。心身ともに疲れ果てている状態が続いていました。

WATANKOはバックオフィスにて石田君と期限切れの弁当やお菓子類をツマミにチビリチビリと酒を飲みながら、彼の愚痴を聞いたり店の売上UPの相談にのっていたりしていました。

彼はまだこのとき30代半ばでしたが、とてもこれからあと数十年もこのような働き方を続けることができないことは当人も周囲の者も十分に感じ取っていました。

■彼がたどり着いた選択

やがて石田君は母親とよくよく協議した結果、コンビニ本部とのフランチャイズ契約を解除することにしました。開店からおよそ10年での方針の大転換です。

1階の店舗を改装して3分の2はテナントエリアとして賃貸することにしました。当初は携帯ショップ、今は整体術のお店が入っています。さらに敷地の一部も賃貸しており、そこはヘアーサロンが建ちました。

こうして石田君は所有不動産の一部から賃貸収入を得ることで安定的な収入源を得つつ、後は残るスペースでこだわりの酒店を続けています。彼曰くここにきて長いこと続けてきた地道な宣伝活動が効いてきて酒類についてのリピート客がだいぶ増えた模様です。とくにワイン好きをあつめた定期的な試飲会か好評のようです。

石田君の現在の酒店の営業時間は10:00~20:00まで、週一日は定休日となっています。売上はアルバイトを雇える水準まではまだ達しておらず、彼がずっと店番をやっていますが、それでもコンビニを経営していたころに比べればだいぶ人間らしい働き方であります。彼はワインの試飲会で知り合い、親しくなった女性と結婚もしました。

WATANKOはそんな彼と時折、酒を酌み交わします。彼の酒店は相変わらず繁盛とはいいがたい状態ですが、それであってもこれからの商売について意見を交わします。

そんな時、石田君は「コンビニのどん底の経験をしたおかげで大抵のことに動じなくなったし、仕事量に関して自分の限界を知ることをできた。コンビニを経験すれば、それを比べてたいていの商売は苦にならない。そのような意味では若い時の貴重な経験だった。」と回想します。

石田君はやがて将来、実家の商売も継いでいくことになるでしょう。その時にはこれまでの経験を活かして頑張ってほしいものです。

(あとがきにかえて)

「コンビニのオーナーは長時間労働や売上・利益の確保が大変」という話は巷で聞きますが、WATANKOの身の周りでも実際にあった「コンビニはもうこりごり」という事例を今回紹介しました。

次回はもうひとつ異なった角度から見えたコンビニの事例を紹介します。

(つづく)

2019年1月30日 (水)

まだまだ頑張るシニアにエールを送りたい

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(頑張ってください!)

WATANKOの現在の部署(もとの勤務先の子会社C社)には63歳過ぎのベテラン社員の松沢さん(仮名)がいます。WATANKOが異動(出向)してくる前は役員に就いており、WATANKOが彼の後任として就任した際にラインを外れて参与として残っていました。

松沢さんはベテランだけあって専門分野における知識・経験が豊富であり、WATANKO含め部署のメンバー一堂にとって良きアドバイザー、知恵袋でありました。

実は松沢さんはWATANKOと以前、同じ勤務先で働いていた際に、短い間でしたが一時はWATANKOの上司でありました。そのためWATANKOにとっては以前からよく知っている方です。当時はとある部署の部長でしたが、上司であった役員本部長と折り合いが悪く、50歳前半で勤務先が関連する外郭団体の理事長として転籍していきました。

やがてその団体を60歳で定年退職すると、今度は元の勤務先の要請に応じてC社の役員として舞い戻ってきたのです。彼は業績が振るわないC社につ対してらららら、
改革に進めるという目的をもってやってきたのですが、いろいろな事情と抵抗にあって改革は進みませんでした。

やがてC社の業績低迷が続くことが明らかになるとその責をとり、昨年退任となったわけです。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

そんなある日、C社と長年取引があり、懇意にしている取引先のひとつであるF社から、C社の組織マネジメント経験者の中から良い人がいれば、F社の役員として迎え入れたいとの申し出がありました。

F社は中堅企業規模ですが、商品力は高く海外展開も行っています。しかしながらマネジメント層の人材は薄く、育てている時間もとれないので既知で信頼のおけるC社に頼ってきたというわけです。

そこでC社のM社長は、WATANKOに対して、F社の申し出に対して松沢さんを紹介してどうかと相談してきました。

このまま法的に雇用義務がある65歳までのこり2年程度の期間でC社に残っているよりも、新しい職場でライントップのポスト、そして大過なくすごせば70歳プラスアルファまで働ける条件とのこと。

WATANKOとしては、困った時の知恵袋がいなくなることに少しばかりの不安がありましたが、いざとなればC社の親会社の知恵も借りることができるし、松沢さんがいるいないにかかわらずもし大きな失敗が起きたとしても事態の収拾と責任はWATANKOがとればよいと考え、M社長が提案する松沢さんの紹介に同意しました。

ほどなくM社長から話を聞いた松沢さんはF社と面談し、これを無事クリアして移籍が内定しました。

F社が提示した処遇は今の松沢さんのそれよりも恵まれており、さらに70歳プラスアルファまで働けるとあっては、まだまだ元気な松沢さんとしては、自身のモチベーションがいやがおうにも高まるというものです。

今回の転職が成立した一番の要因は松沢さんの65歳を過ぎてもまだまだ働き続ける意欲にありました。そこへきて豊富な知識と経験を持っているので鬼に金棒です。

F社側からみても、松沢さんが力量と人柄の両面で求めていた人材にぴったりとこと。したがい当初予定の4月移籍を繰り上げて、年明け1月から来てほしいとのことです。

松沢さん、F社でもきっと思う存分に活躍してもらえることでしょう。

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松沢さんは50歳前半で最初の会社移籍を行い、それから60歳になってC社にやってきました。そして今度はF社で順調にいけば70歳を超えて働く見通しです。

どんなに遅くとも60歳でリタイアすることを固く決めているWATANKOにとっては、松沢さんの働きぶりは真似のできないスタイルです。

それでもあっても、もともと実力があり当人に意欲があり、そして良き移籍先とのご縁に恵まれる。還暦を超えてまだまだ10年くらいは働こうとする身近なシニアをまのあたりにすると、一定のボジションでもって請われた形で末永く働き続けられるという境遇に対して、同じビジネスマンとしての羨ましさを垣間見ました。

松沢さんの今後の活躍にエールを送りたいと思います。


(あとがきにかえて)

松沢さんの退職後、数日たったある日の会話

C社社長「円満な形をとって松沢さんがいなくなり、またシニア一人分の人件費を削ることができた。 頼んであったシニアならびに年齢問わずローパフォーマーのリストを早く提出しなさい。大規模なリストラは法的側面、人材流出面からみてやるわけにはいかないが、こうやって個別に時間をかけて、いなくてもよい人材を減らしていくものだ。減らした人件費分を原資として、有望な若手・中堅の採用を増やすことができる。こうやって・・・」

WATANKO「人件費総額を据え置きしつつ、中身を入れ替えて生産性をあげていくということですか・・・。」

C社社長「社内で稼ぎ手となる人員の歩留まりは常に上げていかなければならないからな。」

松沢さんの移籍を一番望んでいたのではC社、F社、そして本人のうちだれであったのか。


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