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2019年4月 6日 (土)

春の到来を楽しみたい

【3月8日終値ベース運用状況速報】

 

■投資元本(待機資金含む)

 

150,000千円

 

■評価損益(分配金・確定損益・税還付込み)

 

63,379千円

 

■損益率

 

42.3%

 

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WATANKOは地方都市暮らしなので、都会に比べれば多くの自然に囲まれて暮らしています。春を迎えれば冬の無色透明な世界から一転して、色と香りと音に囲まれた暮らしが始まります。

 

朝は鳥のさえずり、たまにウグイスが鳴いてきて起こしてくれます。目覚まし時計は要りません。

 

日中、花であれば桜が咲き、やがては椿やその他の花が咲き乱れます。新緑も目立ちはじめ、これら花と草木が香りを発して生活の周囲を包み込みます。

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自宅の庭先では蜜蜂やモンシロチョウ、キチョウが飛び交い、時にはアゲハ蝶も見かけます。それらの様子を眺めているだけで一刻が過ぎてしまいます。

 

夜は、天を見上げるとオリオン座や北斗七星をはじめとした星々がはっきりと眺めることができ(無料のプラネタリウム)、地ではそばの田んぼからカエルの鳴き声の大合唱が聞こえ生き物の躍動を感じます。

 

こうして自然の様々な息遣いに触れていると、職場での悩み事や不動産賃貸のトラブルからくるストレスで疲れた心が癒されてきます。さらには目の前に立ちはだかった悩み事やトラブルに立ち向かってみるかと元気が出てきます。

 

そういえば今月末からGW10連休がスタートします。ここ5年は仕事柄、半分くらい休日出勤していましたが、今年は久方ぶりに全日休暇がとれそうです。

 

早朝、日の出とともに起きて軽くドライブに行き、朝食のあとは庭先でテーブルとリクライニングチェアーをならべて読書でもしながらのんびり過ごし、グリルで肉でも焼いてランチにする。夕方になれば、風呂に入ったあと夕涼み、さらには星空を眺めながら少しだけお酒を飲んで一日を終える。

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今年はこんな風に自然に囲まれたつつましい暮らしを送りたいと考えています

 

(あとがきにかえて)

 

妻ミサト「あーたしかに春になると庭先で雑草がみるみる伸びたり、スズメ蜂が軒下に巣をつくろうと飛び回っていたり、野良猫が活発に動きまわって芝生に糞をしたりと生命の息吹を強く感じますわ。庭のメンテナンスで忙しくなるシーズンが始まるわね。よろしく。」

 

WATANKO「・・・ハイ」

 

 

2019年3月22日 (金)

近所の葬儀の手伝いも楽になったもんだ


WATANKOが住む地方都市は、ザ・田舎の風習がまだ一部に残っています。15年前に実家の敷地内に新居を建てて住み始めたころから、実家が属していた隣組のお付き合いを行っています。そのひとつに同じ隣組の家で葬儀があれば、その手伝いに出るという相互扶助です。

その葬儀の手伝いも近年はだいぶ楽になりました。とくに次の3点の簡略化が目立ちます。
(注:なお以下の内容はあくまでWATANKOが住む地域での内容であり、他の地域によっては色々と異なる部分もありますことご了解ください。)


1.御葬儀記録帳のカード化

昔は弔問客の受付にて、各人に記録帳に一人ずつ住所、名前などを記名して貰う一方で、受付の背後にある帳場の手伝いがそれを受け取り、御香典の記録帳(名前と金額)を同時に作成していました。
弔問客に書いてもらう記録帳と、御香典等の記録帳の2つを作成するという手伝いにとって非効率でミスが生まれやすい方式でした。弔問客にとっても混んでくると記帳のために並んで待つことになり、面倒でした。
それが10年くらい前からはカード方式に変わりました。弔問客は受付に行く前に、自分で名前、住所をカードに書き込み、御香典等と一緒に出すだけです。それを受け取った帳場を御香典等の中身の金額を取り出し、封筒に記載された金額との一致を確認後、カードに金額を追記して、カードホルダーにファイリングします。
これならば複数の弔問客が同時に記帳することが可能で、受付は迅速に進みます。受け取る帳場もカードに金額を追記するだけなので大変楽です。


2.帳場の金額合わせが不要

以前はカード方式であって御香典等の紙幣を封筒から取り出してまとめます。そして各カードに書かれた金額の合計と、取り出してまとめた紙幣の合計が一致するかチェックします。もしもここで2つが合わないとなると、個々の封筒に記載された金額と記帳カードの金額とのチェックにまでさかのぼって確認しなければなりません。それでも合わないとなるともうお手上げであり、非常に気不味い状況になります。
葬儀業者は葬儀の段取りと当日運営をキッチリと行いますが、この御香典等の受領、集計、喪主への引き渡しだけは全くタッチしません。ここだけは手伝いの責任のもとにやらなければなりません。
これについて最近は、御香典等を受け取った際の紙幣の金額と封筒に記載の金額が合致していることをチェックしたら、紙幣は封筒から出さずに封筒ごとそのままを箱に入れてまとめてしまいます。
つまり紙幣とカード記載額の合計の合致のチェックは不要となり、葬儀後にそのまま喪主に引き渡してしまいます。


3.出棺見送りで解散

以前は告別式のあと、葬儀場から火葬場へ向けて出棺すると、手伝いも火葬場まで一緒に移動し、そこで荼毘に付した後、さらにお墓まで移動して、納骨するところまでずっと付き合いました。(納骨は家によっては別途後日行うケースもわりとありましたが・・・)
さらに納骨が終わると別の会場に移動して、そこで喪主から手伝いに対する振る舞いの会食が執り行われます。
ここまでやると告別式から会食までほぼ一日仕事になります。手伝う側は実はグッタリです。
それが最近はさすがに手伝い達をそこまで拘束するのは気の毒であると、喪主家族が思い始めて、今では葬儀場から出棺するところを手伝いは見送り、そこで仕事完了となりました。
手伝いにとって拘束時間は以前の半分程度まで減少するので、これはだいぶありがたかったです。


■そもそも、もう手伝いはほとんど不要

伝聞の限りではありますが、かなり昔は、葬儀を当人の自宅で執り行うことが一般的でありました。その場合、色々な裏方仕事をこなす人は一定する必要となり、同じ隣組からら集まった人たちでてんやわんやでありました。

それでは現在ではすっかり葬儀業者任せになり、残された手伝いで担当する仕事は受付と帳場まわりだけ、それも段々と合理化されてきました。

実は先日、同じ隣組のおじいさんが亡くなり、WATANKOは昨夜はお通夜、本日は告別式の手伝いに出向いていました。同じ隣組での葬儀はかなり久しぶりであったのですが、そこでは今や前述の1~3も含めて手伝いの役割は限りなく縮小されていることを実感しました。

「みんな、集まってもらったけど、手伝うことはほとんどないよね。」


もはや手伝いはほとんど不要とさえ言えるのかもしれません。それではなぜ隣組から人が集まるのかとういうと、それはもう葬儀のたびに顔合わせをすることで親睦を深めるくらいしか意義を見出せないのでした。

更に10年、20年と年月が経てばどうなるでしょうか。もはや葬儀の手伝いという風習も消え去るかもしれません。


2019年2月24日 (日)

(続)コンビニを人生のビークルにした人たちの選択-父の愛はコンビニを残す

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(前回からの続きです。)

前回、コンビニを出店したWATANKOの高校の同級生の一連の顛末を記事にしました。それは「コンビニ経営は何かと大変」という通説のエビデンスとなったひとつの事例であります。

この他にもWATANKOの周囲には同級生の事例程詳しくは知りませんが、同様にコンビニの経営に苦しんでいる話をチラホラ聞きます。

しかし一方で、それではコンビニを経営するほとんど全ての人が苦境の中にいる人たちばかりなのでしょうか。コンビニとはオーナーをただ蝕むだけでの存在なのでしょうか。

今回はWATANKOが知り得たもうひとつの詳しい事例を紹介します。

■偉丈夫な紳士

WATANKOの母は大正生まれです。かの時代は家族の中に沢山の兄弟姉妹がいたものです。WATANKOの母もまた同様で、本人は8人兄弟姉妹の長女でした。母は沢山いる兄弟姉妹の中で末っ子の四男とは特に親しく、その四男はしばしばWATANKO家を訪ねてきていたことをWATANKOは幼い頃からよく覚えています。

その四男はWATANKOからみれば母方の叔父にあたります。WATANKOがみたその叔父、河田さん(仮名)の印象は色が黒くて体が逞しく、元気みなぎるオジサンでありました。

まさに「偉丈夫」という言葉がピッタリ合う人です。さらに逞しさだけでなく知性や礼儀も垣間見える紳士な人でありました。

WATANKOはその後家を出てからは河田さんと会う機会はほとんどなくなりましたが、両親が亡くなり家督をついで以降、母方の冠婚葬祭(といってもほとんどが葬儀か法事です。)で再びよく顔を合わせるようになりました。

会えば母の思い出話を含めて昔話を聞いたりするのですが、やがて河田さんの家庭の事情を聞く機会もポツリポツリとありました。以下はその内容です。

■定年後のコンビニ出店

河田さんは学校の卒業後に教師となり、最後には校長先生まで勤めました。教師という職業の中では十分に出世した方でありましょう。道理で彼からは知性と礼儀が漂ってきたわけです。

8人兄弟姉妹の末っ子だった彼は跡継ぎの男がいない家系の家に婿養子として入りました。家制度が風習として残る50~60年前の田舎ではよくあることです。

彼は奥さんとの間に4人の息子ができました。彼からは家族6人で海外旅行に行った思い出話などをよく聞かされており、そこからはひとりひとりをとても大事に育ててきた様子がうかがえました。

やがて1990年代に入り河田さんは定年を迎えると、彼が第二の人生として選んだのはコンビニエンスストアの経営でした。国道沿いに面した自宅の敷地内は十分なスペースが残っており、そこにコンビニ店舗を建てて商売を始めたというわけです。

河田さんが住む街は田舎であり、1990年代に入っても国道を挟んで両脇は畑が広がるという風景です。そんな中にあって彼がフランチャイズ契約したコンビニは大手に次ぐ中堅クラスで当時の商品力はそこそこでしたが、出店した途端にとても繁盛したそうです。

なにせ周辺には何もない田園エリアにて、食品含めた日常品が揃っている店は地元の人々が渇望していたようです。あまりの繁盛ぶりに、これに目をつけられて強盗に入られるなどの被害も早速おきたとのことでした。

まさにブルーオーシャンな出店でありましたが、良い時期が永遠に続くはずもありません。やがて年月が経ってくると河田さんの店の繁盛ぶりに目を付けた競合の大手コンビニチェーンがオーナーを募り、彼の店から1~2km圏内にどんどん出店してきました。

その結果、河田さんの店の売上は減少の一途をたどることになります。

■河田さんのコンビニの事情

河田さんのコンビニの運営にあたっては本人と奥さんだけでなく、4人の息子たちのうち、長男と次男が手伝っていました。出店当初はアルバイトも結構雇っていたのですが、売上減少に伴い、その数を減らしており、2000年代に入ってからは必要最低限に絞り込んでいた模様です。

つまりは家族4人がメインとなり交代制でコンビニを経営しているわけです。これが人件費を抑えて店舗を運営できる強みとなっており、売上が減少する中にあってもコンビニを続けることができる要因となりました。

実際のところ、河田さんの店を含めた近隣のコンビニとの競合状況においては一人勝ちするところはなく、お互いがそこそこの集客、売上を確保している状態でした。

そうなると人件費を抑えることができる河田さんの店と異なり、アルバイトの人件費に苦しむ他店の中には閉店するところも出てきました。やがては各店とも均衡状態を保っている様相となりました。

ここで河田さんの4人の息子たちについてちょっと触れます。

河田さんの4人の息子はいずれもWATANKOより少し年下ばかりであり、このうち三男と四男はサラリーマンとなり実家を出て、家庭を持ち独立した暮らしを送っています。

とくに三男は幼いころに河田さんによく旅行につれていってもらったことがきっかけで旅行好きになり、旅行代理店に就職しました。河田さんがWATANKOにこの話をするときの彼の嬉しそうな顔は今でも忘れられません。

しかし長男と次男は学校卒業後に一旦は就職するもうまくいかず、二人とも勤め先を辞めて実家に引きこもってしまいました。そこで河田さんは二人にコンビニの経営を手伝わせています。

WATANKOが40歳を過ぎた長男、次男に実際に会ってみると会話どころか挨拶一つできない引きこもりな二人でした。それでも長年コンビニで働いてきたためか、店頭での接客はそこそこできています。まあこれも河田さんの教育があってこその結果でしょう。

■子ども達のためにコンビニを残す

さて2010年代にはいると河田さんも寄る年波には勝てず、体調が段々とすぐれなくなってきます。やがて奥さんに先立たれ、自身もその数年後に病気を患ってしまいます。

偉丈夫であった河田さんの身体は盆暮れに会うたびに段々と痩せこけていきます。それでも彼はコンビニの仕事を引退することなく通院を続けながら働き続けましたが、ある年の冬、とうとう力尽きてこの世を去りました。

WATANKOは河田さんの葬儀に参列したのですが、そこで式を取り仕切っていたのは実家で河田さんと一緒に暮らしていた長男、次男ではなく、離れて暮らしていた四男でありました。WATANKOからみれば長男、次男とも一切なにもせず(できず)ただただオロオロするばかりでありました。

WATANKOは「最後まで君たちのことを心配していたお父さんの葬儀なのだから、せめて集まってくれた人たちにお礼の挨拶まわりくらいはやらんかい!!」と心の中でイラっとしながらその様子を眺めていました。

河田さんは息子達をとても大事に育ててきました。しかしあえてWATANKOから厳しいことを言わせてもらえれば、その愛情は息子達を甘やかし、自立を損なわせてしまった一面があったかもしれません。

いい大人になっても父親の世話にならないと生きていけない息子達・・・。でも河田さんはそれもまた自分の責任と感じて、自分がいなくなっても長男と次男がなんとか暮らしていける手段を考えていたのではないでしょうか。

そこで河田さんは自分の老後のためだけでなく、他所で働くことが難しくなってしまった長男と次男のために、コンビニを始めたことがうかがえます。

自宅のすぐ隣に店舗があり、仕事はマニュアルに基づき決められていることをこなせばよい。兄弟が交代で店番をすることで長時間労働もある程度緩和できます。専従者給与や各種保険をはじめ様々な出費を経費とすることで税金負担も軽減できます。食費に事欠けば最悪、廃棄弁当を食べてでも飢えをしのげます。

コンビニという強固な小売業システム、これを守っていけばある必要最低限な家計生活を送ることができるわけです。

河田さんは自分がいなくなった後、長男と次男の生活の糧となる仕組みとしてコンビニを選んだのでした。

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やがて河田さんが亡くなって1年後に一周忌が執り行われました。

WATANKOが出席するとそこでは1年前とはうってかわって一周忌を取り仕切り、挨拶も立派にこなす長男、次男の姿がありました。

「河田さん、あなたの子ども達は貴方が亡くなった跡を無事継いで、徐々に自立への一歩を踏み出しているようです。」

WATANKOは仏壇に飾られた河田さんの写真を前に手をあわせつつ、彼に安堵の気持ちを伝えるのでした。

河田さんが残したコンビニを長男と次男がいつまで運営していけるのかはわかりませんが、一日でも長く続けてもらいたいものです。

■コンビニは人生のビークル

前回記事から述べている通り、コンビニの経営は決して楽な仕事ではありません。

▼集客は立地の良し悪しでほとんど決まってしまいます。

▼たとえ繁盛してもオーナーの手元に残る利益は限られています。

▼アルバイトが雇えなければオーナーは長時間労働を強いらて心身の健康を害します。

▼接客上や近隣とのトラブルも時には起こりえます。

前回の記事では酒店専業のリスクの回避策として始めたコンビニですが、その経営の負担が大きくボロボロになり切ってしまう前に方針転換した事例を紹介しました。

また今回はコンビニとは経営は大変だけれども、他に生活の糧がない人にとっては頼れる小売業システムである点にスポットを当てました。

街中にあふれているコンビニ。

WATANKOは例えば同じチェーン店であっても店舗ごとに繁盛しているかそうでないかを観察しつつ、その裏に透けて見えそうなオーナーのコンビニ人生を想像しながら買い物を済ませるのでした。

2019年2月23日 (土)

コンビニを人生のビークルにした人たちの選択

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(コンビニ経営は大変です。)


脱サラ後の生計の建て方あるいは自営業の商売変えの選択肢のひとつとしてコンビニエンスストアが挙げられます。

コンビニエンスストアのオーナーは、大手コンビニチェーンのフランチャイジーとして、有名なブランド、売れ筋の商品の供給、効果的な販売管理システムを強みに、自己資金または借入金によって店舗を建て、自らがオーナー(又は兼従業員)となって最先端で利便性の高い小売業業態を運営します。

しかしその実態はチェーン本部に支払うロイヤリティの負担が大きい、商品仕入れやキャンペーンにおいて様々な協力を強いられる、収益面からみて人をたくさん雇えないのでオーナーが長時間労働せざるを得ないといった事態に直面するという過酷な話が以前から伝えられています。

先日も24時間営業を続けることができなくなったコンビニ店のオーナーが話題となりました。

参照記事

2月20日付 Yahoo!JAPAN ニュース 
「もう限界…」自主的に24時間営業をやめたコンビニ店オーナーの判断に波紋

上記記事にて取り上げられているオーナーに関しては、苦境に陥るに至る特有の事情があったことの他に、別の記事によるとオーナーの素行についての問題を指摘する声も出ています。

記事内容の件では、オーナーとコンビニ本部とのどちらに非が多いのかはさておき、WATANKOはコンビニのオーナーがいかにきつい職業であるかということを久しぶりに思い出しました。

というのも以前、高校の同級生がコンビニを経営していたからです。

■酒店をコンビニに変更して出店

WATANKOは地方都市の公立高校に通っていましたが、そこで親しかった同級生の一人、石田君(仮名)は高校卒業後に大学を経て、酒屋にて数年間修行を積んだのち、20代後半でコンビニのオーナーとなりました。

もともと石田君の実家は隣街で長年、農機具販売兼酒店を経営しており、彼の母親が店を切り盛りしていました。親の影響があったからか石田君自身も酒店の商売をやりたい意向があり、他店で修業したのち、地元で店を開く運びとなったわけです。

石田君としては、こだわりの日本酒とワインを中心とした個性的な品ぞろえの酒店を当初目論んでいました。

しかし彼の母親は当時、酒の販売は競争を制限する規制が徐々に撤廃され、その結果、将来は競争が激化することを見越していました。そこで石田君が先々も安泰して商売を続けるためには単純な酒店だけではリスクがあると判断し、出店についてはコンビニ業態を選ぶことを強く勧めました。

石田君は母親の提案に当初は難色を示しましたが、コンビニの店舗建築費用を含めた開業資金は彼の実家がスポンサーとなっているため拒絶もできず、「こだわりの日本酒やワインも置いてあるコンビニ」として出店することで折り合いを付けました。

こうして1990年代半ばに石田君のコンビニエンスストアのオーナーとしての人生がスタートしたわけです。

■一国一城の主

石田君のコンビニ出店の際には、新築した自宅兼店舗のお披露目にWATANKOを含めた友人達が招待されました。新興住宅街の中心近くで交通量が多い交差点という好立地、駐車場スペースが十分にとれる敷地内に二階建てが建てられました。

二階建ての一階はコンビニ、二階は居住用という造りで室内は広いです。通勤時間に囚われることにも無縁であり、彼のビジネス、プライベート両面の洋々とした今後の様子を当時ひしひしと感じたことを、WATANKOは今でも覚えています。

もちろんこれらの環境は、石田君自身であつらえることができた部分は限られており、彼の実家の資金と様々なツテによるものであることはいうまでもありません。

それであっても石田君はこの時点で一国一城の主なのです。

一方のWATANKOはしがない給与所得者。当時勤務先は業績低迷で給与は減少。持ち家もなく狭い社宅暮らし。実家は不動産をいくつか所有していますがどれも田畑であり、自営の農業に供しているにすぎませんでした。(WATANKOが不動産投資を自ら手掛ける以前の話です。)

WATANKOは当時、「30歳前にして、随分と差をつけられたな」という気持ちでした。

10年くらい経ったら、石田君とWATANKOとの間に経済的にはどれだけの開きが出てくるのだろうか、やはりサラリーマンは安定しているかもしれないけれど大儲けできる職業ではないないなあと漠然と思いました。

ところが10年どころか4~5年も経つと状況はWATANKOの予想から随分と外れてきたのです。

■コンビニ経営の誤算

石田君がコンビニを出店した当初、すぐ隣では大型商業施設の建設工事が始まりました。すると工事現場で働く職人達が大勢、彼のコンビニにやってきて弁当や飲み物、休憩中等に読む雑誌等を買ってくれました。おかげでコンビニの経営は順調な立ち上がりとなりました。

しかし大型商業施設が完成すると、職人達の来店はパッタリと途絶えます。さらに大型商業施設の出店に伴い周辺の交通量が増え、そこに目を付けたコンビ二他社が軒並み出店攻勢をかけてきました。

石田君が契約したコンビニチェーンは大手トップクラスのチェーンに比べるとマイナーであり、商品力は見劣りします。もともとこだわりの酒類をおくことが出来るという自由度が高い条件でフランチャイズ契約が締結できること、そしチェーン本部に支払うロイヤリティが比較的少ないことを条件に選んだチェーンでありました。

しかしそれは一方で、競争が激化してきた場合のサポートが大手に比べて期待できないことを意味します。石田君としてそこはこだわりの日本酒やワインを揃えることで商品の差別化をアピールする作戦でありました。

しかしたしかに日本酒とワインの品揃えは値段がリーズナブルであることも含めて十分に魅力的でありましたが、まだ十分な固定客を得るまでに至らず、コンビニの売上の補完役としては不十分でありました。

ビジネスの教科書に載っているSWOT分析でいえば、「機会」(工事現場の職人達)が無くなる一方で、「脅威」(大手の競合コンビニ)は増える。チェーンの商品力やサポートは相対的には「弱み」であり、「強み」として据えていたこわだりの日本酒やワインはいまだその魅力を十分に発揮できていませんでした。

コンビニに限らず小売業というのは商品の利幅は決まっているので、売上減少は即、死活問題であることはいうまでもありません。

■さらなる追い打ち

石田君のコンビニには売上減少だけでなく、内部的にも苦労を重ねていました。

石田君が契約していたコンビニチェーンの営業時間は7:00~24:00。コンビニだから仕方がないといえばそれまでですが、それにしても長時間に及びます。本来であればパート、アルバイトを雇って昼夜交代勤務のシフトを敷くべきところですが、売り上げが低迷している石田君の店の場合、パート、アルバイトを十分に雇うことができません。

したがって最後は石田君自身が長時間労働に従事することになります。彼はもっとも長いケースでは、朝7:00に店を開けて少したったあと、数時間の仮眠をとる以外は食事時を除いて24:00までずっと店頭に出っぱなしです。

さらには24:00に閉店したあともバックオフィスにこもって売上の集計、在庫の確認、商品の発注作業など翌日の営業に向けた準備作業が数時間続きます。そのあとにようやく就寝。数時間後にはまた開店時間となります。

これらを合わせると彼は一日のおよそ3分の2は働きづくめということになります。

またコンビニを日々営業していると販売上の様々なトラブルにも出くわします。例えば子どもが万引きすれば親の呼び出し、時には学校や警察への連絡沙汰となり余計な労力をとられるばかりです。

あげくの果ては石田君には当時、年下の彼女がいて半ば同棲していたのですが、石田君は費用面でパート、アルバイトが雇えない代わりに彼女に店を手伝わせていたのです。しかもただ働きです。これにはとうとう彼女も嫌気がさして石田君とケンカしたうえで出て行ってしまいました。

WATANKOは深夜閉店後に度々石田君と会いましたが、会うたびに彼は顔色が悪くなり、髪も髭も伸び放題。心身ともに疲れ果てている状態が続いていました。

WATANKOはバックオフィスにて石田君と期限切れの弁当やお菓子類をツマミにチビリチビリと酒を飲みながら、彼の愚痴を聞いたり店の売上UPの相談にのっていたりしていました。

彼はまだこのとき30代半ばでしたが、とてもこれからあと数十年もこのような働き方を続けることができないことは当人も周囲の者も十分に感じ取っていました。

■彼がたどり着いた選択

やがて石田君は母親とよくよく協議した結果、コンビニ本部とのフランチャイズ契約を解除することにしました。開店からおよそ10年での方針の大転換です。

1階の店舗を改装して3分の2はテナントエリアとして賃貸することにしました。当初は携帯ショップ、今は整体術のお店が入っています。さらに敷地の一部も賃貸しており、そこはヘアーサロンが建ちました。

こうして石田君は所有不動産の一部から賃貸収入を得ることで安定的な収入源を得つつ、後は残るスペースでこだわりの酒店を続けています。彼曰くここにきて長いこと続けてきた地道な宣伝活動が効いてきて酒類についてのリピート客がだいぶ増えた模様です。とくにワイン好きをあつめた定期的な試飲会か好評のようです。

石田君の現在の酒店の営業時間は10:00~20:00まで、週一日は定休日となっています。売上はアルバイトを雇える水準まではまだ達しておらず、彼がずっと店番をやっていますが、それでもコンビニを経営していたころに比べればだいぶ人間らしい働き方であります。彼はワインの試飲会で知り合い、親しくなった女性と結婚もしました。

WATANKOはそんな彼と時折、酒を酌み交わします。彼の酒店は相変わらず繁盛とはいいがたい状態ですが、それであってもこれからの商売について意見を交わします。

そんな時、石田君は「コンビニのどん底の経験をしたおかげで大抵のことに動じなくなったし、仕事量に関して自分の限界を知ることをできた。コンビニを経験すれば、それを比べてたいていの商売は苦にならない。そのような意味では若い時の貴重な経験だった。」と回想します。

石田君はやがて将来、実家の商売も継いでいくことになるでしょう。その時にはこれまでの経験を活かして頑張ってほしいものです。

(あとがきにかえて)

「コンビニのオーナーは長時間労働や売上・利益の確保が大変」という話は巷で聞きますが、WATANKOの身の周りでも実際にあった「コンビニはもうこりごり」という事例を今回紹介しました。

次回はもうひとつ異なった角度から見えたコンビニの事例を紹介します。

(つづく)

2019年1月30日 (水)

まだまだ頑張るシニアにエールを送りたい

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(頑張ってください!)

WATANKOの現在の部署(もとの勤務先の子会社C社)には63歳過ぎのベテラン社員の松沢さん(仮名)がいます。WATANKOが異動(出向)してくる前は役員に就いており、WATANKOが彼の後任として就任した際にラインを外れて参与として残っていました。

松沢さんはベテランだけあって専門分野における知識・経験が豊富であり、WATANKO含め部署のメンバー一堂にとって良きアドバイザー、知恵袋でありました。

実は松沢さんはWATANKOと以前、同じ勤務先で働いていた際に、短い間でしたが一時はWATANKOの上司でありました。そのためWATANKOにとっては以前からよく知っている方です。当時はとある部署の部長でしたが、上司であった役員本部長と折り合いが悪く、50歳前半で勤務先が関連する外郭団体の理事長として転籍していきました。

やがてその団体を60歳で定年退職すると、今度は元の勤務先の要請に応じてC社の役員として舞い戻ってきたのです。彼は業績が振るわないC社につ対してらららら、
改革に進めるという目的をもってやってきたのですが、いろいろな事情と抵抗にあって改革は進みませんでした。

やがてC社の業績低迷が続くことが明らかになるとその責をとり、昨年退任となったわけです。

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そんなある日、C社と長年取引があり、懇意にしている取引先のひとつであるF社から、C社の組織マネジメント経験者の中から良い人がいれば、F社の役員として迎え入れたいとの申し出がありました。

F社は中堅企業規模ですが、商品力は高く海外展開も行っています。しかしながらマネジメント層の人材は薄く、育てている時間もとれないので既知で信頼のおけるC社に頼ってきたというわけです。

そこでC社のM社長は、WATANKOに対して、F社の申し出に対して松沢さんを紹介してどうかと相談してきました。

このまま法的に雇用義務がある65歳までのこり2年程度の期間でC社に残っているよりも、新しい職場でライントップのポスト、そして大過なくすごせば70歳プラスアルファまで働ける条件とのこと。

WATANKOとしては、困った時の知恵袋がいなくなることに少しばかりの不安がありましたが、いざとなればC社の親会社の知恵も借りることができるし、松沢さんがいるいないにかかわらずもし大きな失敗が起きたとしても事態の収拾と責任はWATANKOがとればよいと考え、M社長が提案する松沢さんの紹介に同意しました。

ほどなくM社長から話を聞いた松沢さんはF社と面談し、これを無事クリアして移籍が内定しました。

F社が提示した処遇は今の松沢さんのそれよりも恵まれており、さらに70歳プラスアルファまで働けるとあっては、まだまだ元気な松沢さんとしては、自身のモチベーションがいやがおうにも高まるというものです。

今回の転職が成立した一番の要因は松沢さんの65歳を過ぎてもまだまだ働き続ける意欲にありました。そこへきて豊富な知識と経験を持っているので鬼に金棒です。

F社側からみても、松沢さんが力量と人柄の両面で求めていた人材にぴったりとこと。したがい当初予定の4月移籍を繰り上げて、年明け1月から来てほしいとのことです。

松沢さん、F社でもきっと思う存分に活躍してもらえることでしょう。

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松沢さんは50歳前半で最初の会社移籍を行い、それから60歳になってC社にやってきました。そして今度はF社で順調にいけば70歳を超えて働く見通しです。

どんなに遅くとも60歳でリタイアすることを固く決めているWATANKOにとっては、松沢さんの働きぶりは真似のできないスタイルです。

それでもあっても、もともと実力があり当人に意欲があり、そして良き移籍先とのご縁に恵まれる。還暦を超えてまだまだ10年くらいは働こうとする身近なシニアをまのあたりにすると、一定のボジションでもって請われた形で末永く働き続けられるという境遇に対して、同じビジネスマンとしての羨ましさを垣間見ました。

松沢さんの今後の活躍にエールを送りたいと思います。


(あとがきにかえて)

松沢さんの退職後、数日たったある日の会話

C社社長「円満な形をとって松沢さんがいなくなり、またシニア一人分の人件費を削ることができた。 頼んであったシニアならびに年齢問わずローパフォーマーのリストを早く提出しなさい。大規模なリストラは法的側面、人材流出面からみてやるわけにはいかないが、こうやって個別に時間をかけて、いなくてもよい人材を減らしていくものだ。減らした人件費分を原資として、有望な若手・中堅の採用を増やすことができる。こうやって・・・」

WATANKO「人件費総額を据え置きしつつ、中身を入れ替えて生産性をあげていくということですか・・・。」

C社社長「社内で稼ぎ手となる人員の歩留まりは常に上げていかなければならないからな。」

松沢さんの移籍を一番望んでいたのではC社、F社、そして本人のうちだれであったのか。


2019年1月24日 (木)

「健康寿命-リタイア年齢」を1年でも長く確保したい

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(新聞記事の見出しに違和感あり)

日経新聞の郵送世論調査によると70歳を過ぎても働く意欲を持っている人が3割を占めたそうです。これは2017年の70歳以上就業率(15%)を上回り、高齢者就労を促進する政府の取り組みにあわせて労働参加が進みそうだとのこと。一方で8割近くが老後に不安を感じており、社会保障の負担増や給付減に備え、長く働いて収入を確保しようとする様子が伺えるとも報じられています。

関連記事

2019年1月21日付日本経済新聞
「70歳以上まで働く」3割
郵送世論調査 老後に不安も

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また上記記事によると以下の結果もあげられています。

・年収が低い人ほど70歳以上まで働く意欲がある人が多い

・社会保障制度のあり方については所得が低くなるほど「高福祉・低負担」の支持が高い傾向にある。

至極当然の結果ですが、こうなるとWATANKOは記事の見出しに違和感があります。

■正しくは「70歳まで働かざるを得ない」ではないか

日経新聞の記事タイトルでは「70歳以上まで働く」とありますが、記事内容を読めば老後の経済面における不安の高まりを動機として、70歳以上であっても「主体的に」働くのではなく、「働かざるを得ない、働かないと食べていけない」というのが実態であることが容易にわかります。

しかしながら「70歳以上まで働く」という記事の見出しでは、ともすればまるで当人の自発的な意欲を起点とする回答であるかのように捉えられる表現です。実際ここは「70歳以上まで働かざるを得ない」が正しい見出しでしょう。

■リタイア即介護入り

一方で同じ日経新聞の記事ではこうも報じています。

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2018年3月9日付日本経済新聞
健康寿命、男女とも延びる 男性72歳・女性74歳

厚生労働省によると、介護を受けたり寝たきりになったりせず日常生活を送れる期間を示す「健康寿命」が、2016年は男性72.14歳、女性74.79歳とのことです。なおこの健康寿命は男女ともに徐々に伸びています。

これでは70歳以上まで働いたあと、ほどなく被介護状態に突入するという晩年になってしまいます。

実際にはリタイアする年齢と被介護状態になる年齢にはある程度開きがありますことでしょう。

しかし社会全体として健康寿命が延びるスピードよりも、より就業を継続する年齢の高まりのスピードの方が上回るとすれは、「健康寿命-リタイア年齢」はだんだんと短くなっていきます。

ある年を境に通い続ける先が、会社から介護施設に切り替わることになる。

そんな未来のために日々、忍耐とストレスを伴う仕事に従事し、欲しいものも我慢して節約・貯蓄を行い、棄損する結果に終わるかもしれない投資を行うなんて、WATANKOからみればあまりに寂しすぎる人生です。

WATANKOの父は75歳で自営の農業を廃業しリタイアしました。しかしそのわずか2年後には認知症を発症し、翌年78歳で介護施設に入所、さらに2年後の80歳で亡くなりました。75歳になる以前から農業は晩年徐々に縮小し、セミリタイア生活に入っていたともいえますがリタイア後の残された時間はあまりに短かったです。

この終末が父にとってはたしてどれだけ幸せであったかどうかはわかりませんが、WATANKOは少なくとも同じような終末はたどりたくはないと強く思っています。

■「健康寿命-リタイア年齢」を1年でも長く確保したい

そこで上記の「健康寿命-リタイア年齢」を1年でも長く確保するためには、これを引き延ばす努力が必要です。

いつでも好きな時に仕事を辞めることができるように資産形成をすすめることと、健康寿命を延ばすために健康管理を徹底することをこれから更に意識していきます。

そして仕事に対する意欲や子どもの教育などの条件の変化がトリガーとなって、リタイアする日を「主体的に」決めていくつもりです。

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2018年10月25日 (木)

預金残高10万円-1990年代後半の辛い時代

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(お金がありません)

2018年秋は10年前に起きたリーマンショックを振り返る記事を書く個人投資家ブロガー達にとってセンチメントな時節であります。

中でも相互リンクさせていただいていますインデックス投資日記@川崎のkenzさんは、勤務先のリストラ話を詳しく取り上げており、リアリティ満載であります。

参照記事

インデックス投資日記@川崎
10年前のリーマン・ショック当時の世界同時株安の体験その1

さてリーマンショックは100年に一度と言われるくらいの大不況でしたが、そこまで大規模ならずとも?過去の経済不況はなにもリーマンショックだけではありませんでした。

そこで今回は日本で1997〜1998年頃に起きた経済不況の頃、WATANKOが体験した勤務先のリストラの記憶をとりあげてみます。

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時に西暦1998年

アジアでは前年にタイ発の通貨危機が発生、当年では日本では金融危機が起こり、証券会社、そして絶対に潰れないと言われていた銀行がいくつか経営破綻しました。金融機関の中小企業に対する「貸し渋り」が流行語になるなど金融業界は低迷の時期にありました。

WATANKOが働く勤務先は、主たる顧客である海外からの発注が減る中、1994年頃から生じた円高の影響により国際競争力が急速に低下、新興国の競合先に仕事を奪われる展開が続きました。その結果、業績が一気に悪化、経営陣は入れ替え、金融機関からの支援を受けるなどの事態に陥りました。

そしてリストラが始まります。全社員!を対象に早期退職制度が導入され、その一方で主に中高年を対象に戦力外通告、肩たたきが行われた結果、社員は大幅に減りました。

そのあとに残った社員にとっても給与・賞与は大幅カットされ悲惨な状態が始まりました。

WATANKOの周りでも転職先紹介会社のリストが出回っていたり、残った社員達もこの沈みゆく泥舟に残っていて良いものか、いつ破綻するのかと疑心暗鬼な中で仕事をする日々です。誰かが辞めると「ああ、あいつも会社に見切りを付けたか」とよく思ったものです。

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さて当時のWATANKO自身はどのような状況であったか。

結婚して数年が経ち妻と幼い長男の3人暮らしであり、将来かかるであろう教育費や住宅の購入に向けて貯蓄をしていかなければならない状況でした。いわゆる若夫婦の「貯め時」にあたりました。

そこへ給与・賞与の大幅カットが直撃したのですからひとたまりもありません。

加えて間の悪いことに、1994年~1996年に所有していたマイカーのシトロエンXMが札付きの不良モデルであり、故障が頻発して修理費が嵩みすぎた結果、貯金がかなり減ってしまいました。

当時のWATANKO若夫婦にとってのお金はフローが細くなり、ストックも激減する状態です。

将来に向けた天引きの財形貯蓄で年間1,000千円程度を貯めることはなんとか続けられましたが、残ったお金での生活はなかなか大変でした。毎月通帳残高とにらめっこをする有様です。

ワースト記録としては預金残高が100千円を切る時もありました。

家計は当然ながら節約が続きます。妻が地元の激安スーパーで買ってくるのは3丁100円の豆腐です。週末は当時住んでいた県内にある大きな公園に幼い長男を連れて行くなどお金をかけない余暇の過ごし方が続きました。

幸いなことにまだ社宅が残っており、住居費は比較的安価に抑えることができました。家電など耐久消費財は結婚当初に色々と揃えたので当面は買い替えが不要でした。

やがて2000年代の半ばにさしかかると勤務先の業績は回復に向かい、給与カットはなくなり、賞与の支給額も徐々に上がっていきました。

一方で家計の節約は継続していましたので、銀行の預金残高はみるみる増えていきました。

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あの頃のリストラ、そして家計が苦しい状態であれば、とてもリスク金融商品による投資などはする気にはなれなかったでしょう。

20年前に信託報酬0.109%(税抜)の超低コストで、世界の先進国22か国に分散投資できるeMAXIS Slim先進国株式インデックスが設定されていたとしても、たとえ1万円でもあっても購入する気にはなれなかったでしょう。

投資は余裕資金で行うことが鉄則ですが、家計がとてもきつかった当時のWATANKOにとっての余裕資金はゼロ、そしてリスク許容量もまたゼロでありました。

遠い20年前の出来事であります。

(あとがきにかえて)

この後に徐々に認知症にかかった父に代わって実家の不動産賃貸業を手掛け始め、さらに数年後にはインデックス投資を始め、現在に至ります。

もしもタイムマシンがあったなら20年前の自分に資金援助をしてあげたいという気もおきますが、一方であの頃の節約の経験がその後、収入が増えても浪費しない家計を形づくる土台となっていたので、今となってはとても良い経験でありました。


2018年9月23日 (日)

時計の針は動いていた

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(お彼岸の墓参りはお済ませでしょうか。)

自分の身に周りにいる家族や親類、親しい友人がある程度揃って年月が立つと、それらの大事な存在がずっと変わらずに傍に居続けることが当たり前に思えてきます。

昨年も皆元気であり、会うことができた。来年も再来年も同じ状態が続くだろう。当たり前のように、いや「当たり前」という言葉すらも思い浮かべることはなく当然のようにそう思ってしまいます。

でも先日、そんな当たり前がいきなりそうではなくなった、いくつかの事態に直面しました。

■叔母夫婦の老犬の死

近所に住む年老いた叔母夫婦は子どもがいなかったので、30年くらい前から犬を飼っていました。綺麗にしており室内でも飼っていたのでもう子どものような存在です。今飼っているのは2匹目で13歳にもなる老犬でした。

WATANKOはこの叔母夫婦の息子代わりになってこれまで時々、面倒を見てきており、この老犬もWATANKOにとてもよく懐いていました。WATANKOも叔母夫婦に代わって時折、散歩に連れ出したりしていました。

その老犬が先週突然亡くなりました。近年は白内障を患って片目を失明したり、だいぶ体が弱っていたのですが、それでも歩行や摂食は問題なかったので驚きでありました。

叔母夫婦にとっては子どものような存在が突如いなくなった世界で、これからは生きていかねばなりません。先日、叔母夫婦を訪ねると、老犬を失ったショックがまだ癒えず、見るからに元気がなさそうでした。

WATANKOにとっても後から喪失感を湧いてきて、しばらくは落ち込みました。WATANKOですらこの状態であったので、叔母夫婦のショックの大きさがうかがい知れます。

■妻の父の入院

妻の父が今週、身体に激痛が走り、起きることができなくなってしまいました。当人はかねてから脊椎を痛めており、それが進行してしまったようです。

急遽入院となったのですが、その後の検査の結果、なんと骨折も判明し、全治2か月はかかる見通しです。

妻の両親は、WATANKO家から車で1時間程度離れたところにすんでいるので、この緊急事態に対して妻が色々と面倒をみるために両親の実家に頻繁に出かけるようになりました。

WATANKOの両親は既に他界しましたが、妻の両親は年齢の割にはとても元気で、特に足腰はしっかりとしていました。健康状態も問題なく好きなものを食べてお酒をのみ自由な老後生活を送っていました。

しかしそうした日々は突然の終わりを迎えました。妻の父の今後の治療やリハビリはおそらく大変でありましょう。

WATANKOが見てきた過去事例から推察するに、妻の父は年齢からみて健康状態やQOLが以前のレベルに回復することはかなり困難と思われます。

また、父だけでなく母の心身の負担も見過ごせず、心配するところであります。

■自分の体にもシグナル

叔母夫婦の老犬の死、妻の父の入院と突然のイベントが起きる中で、WATANKOもまた先日、腰を痛めてしまいました。

実は先月のお盆の頃は酷い三叉神経痛を患い、夏休みがフイになりましたが、今度は腰痛を発症するとは参りました。

50歳を過ぎて身体にガタがきていることを知らせるシグナルを受け取ったような気分であります。

楽しいリタイア生活を送るためには、健康面のトラブルを抱えるわけにはいきません。生活習慣の見直しが必須であります。

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生き物には寿命があり、いつかは終わりを迎えますが、それを実感するのは家族・親類や身の回りの大事な存在を失うときであります。WATANKOはかつて父、母を相次いで亡くした際にそれを実感しましたが、以降は幸いにも機会がなく、やや鈍感になっておりました。

それが今回身の回りに起きた出来事で思い起こされました。

WATANKOと、その身の回りの大事な存在にとっての時計の針は確実に進んでいたわけであります。そしてその針はいつかは止まります。

50歳のWATANKOにとって残された時間は悲観するほど短くはありませんが、有限であることは確かです。

そこで仕事、そして子育てについてのパンチ・リストを作って、片付けるとしましょう。

2018年8月13日 (月)

お盆の日くらい、亡くなった父母に会って話してみたい

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(父母との会話が懐かしくなるお盆)

田舎では8月13日から15日はお盆シーズンです。帰省ラッシュ、高校野球、戦争記録のDVDの宣伝、そしておじいさん、おばあさんが孫たちとショッピングモールやレストランで楽しそうに過ごす様…。どれもお盆のキービジュアルです。

WATANKOもお盆の直前に自宅の隣にある実家(WATANKOの生家)を年1回の大掃除を行います。そのあと仏壇に簡単ながら飾りつけを行います。

以前、父がいた頃は父の弟や妹たちが子ども、つまりはWATANKOの従兄弟をつれてお墓参りに来て、その後にこの実家で集まって宴会をやっていました。

1人っこであったWATANKOにとって、集まった従兄弟たちと遊ぶこのひと時がとても嬉しくて、毎年楽しみにしていたものです。(40年後にはまた集まって大酒飲んでいるのですが。)

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父が亡くなって13回忌、母が亡くなって6年がそれぞれすぎましたが、この間には実にいろいろなことがありました。

人気漫画ドラゴンボールには、亡くなった人を一日だけ現世に呼び戻すというエピソードがありますが、それにならって亡くなった父母と一日だけ会えるとしたら、何を伝えようか、どんな会話をしようか。

●父母の遺品はまだかなり整理し切れずに残っている。父の日記や母がよく聞いていた演歌のカセットテープは捨てられないよ。ネクタイは1本だけ形見でもらって使っている。

●親戚や知人のXさん、Yさん、Zさんらは皆亡くなった。介護施設に入った。大分少なくなったよ。彼らに伝言しておくことはないかい。

●実家は地震で建具が傷んで住めなくなった。屋根もかなり傷んで雨漏りが心配だ。いつ取り壊そうか。それともとっておいてほしいか。

●あの不動産に関する書類がみつからない。どこにしまってあるのか。それともそもそもないのか教えて欲しい。みつからなくて随分苦労したよ。

●所有地の造成でいろいろもめました。弁護士も使ってようやくおさめました。父母が苦労したかもしれない近隣との関係や心配事のいくつかは私が片付けました。

●遊休所有地の一部は売却したよ。この他にも子ども達には引き継がせるには厄介な土地は処分していくから。父母が一生懸命守ってきた土地だったのかもしれないけどごめんよ。

●2人の子どもは大学生と中学生でこんなに大きくなったよ。特に長男は父に、次男は母によく似ているだろう。

●不動産賃貸は物件を更新しつつも、むやみな拡大をせず堅調にやってきたよ。賃料収入は放蕩せずに、ちゃんと蓄えているよ。その蓄えを更に堅実に増やす方法も覚えたよ。

●仕事は新卒で入った会社でこれまでずっと働き続けて来たよ。定年まで働くか少し早く辞めるかわからないけど、今はもう、それを自分で選択できる自由があるよ。

●子ども達の教育と相続の道筋をつけて、仕事も満足いくところまでやりきれば、もうリタイアしてもいいよね。怠け者なんて呼ばないでおくれ。

など等


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実際には、仏壇に線香をあげながら、色々なことを語りかけます。

でも、何一つ返事はかえってきません。


今とこれからのことは、生きている者でしか決められません。

WATANKOは、父母にとって唯一の子どもでしたので、今は誰に頼ることもできず、なおさらそう思います。


では孤独なのかというとそうではありません。

妻と、父母によく似た2人の子どもがいますから。

今日は迎え盆です。昔のように親戚が集まってにぎやかになることはもうありませんが、家族と一緒に父母を偲びながら食事にでもいきましょう。

妻や子ども達にまだ話していない父母のエピソードは何だったかな。

いまやもうWATANKOの脳裏にしか残っていない父母の記憶を辿る暑い夏の日。

2018年7月 2日 (月)

最後のキャリア-本日から新しい職場で仕事開始

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(今日から新しい職場、頑張るぞい。)

WATANKOは以前、勤務先での人事異動の内示を受けておりました。今まで経験のない新しい分野で7月から仕事をする予定でありました。

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新しい仕事に取り組むから、早期リタイアの検討は一時中断(2018/1/29)

ところが6月に入って昨年の自分の業績評価のフィードバックを受けようと上司を訪ねた際に、当初異動を予定していた社内部署から突然、異動先の変更をあわせて告げられました。

おいおい、異動まで1カ月を切るこの時点で変更かいと思いつつも、詳しい内容を聞くと社内での異動ではなく、子会社のC社に出向することになりました。

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実はC社はWATANKOがかつて30代前半に3年ほど出向した経験がある会社でした。あの頃のWATANKOは勤務先(親会社)では営業を担当しており、出向先の子会社でも同じく営業を担当しました。

出向当初、C社には知り合いもおらず、一人で取り扱い商品を覚え、顧客をまわらなければなりません。更には今までの上司の指示のもとに動くスタイルから、C社ではポジションが1つ上がり、自分で判断し、社内を動かし、結果を出さねばならない立場となりました。

当時は関東各地はもちろんのこと、長野や大阪、大分など各地をまわって顧客や競合先と切った張ったをやってきたものです。

そこでは頼る者も乏しく、いやがおうにも自分自身の判断力と行動力が鍛えられることになり、ビジネスマンとして成長する機会を得ることができました。

やがて3年の出向期間を半年残す頃になって、当時、C社の社長と営業本部長から、このままC社に残ってはくれまいかと誘いをうけました。二人とも親会社から転籍してきた役員でWATANKOのことを買ってくれており、WATANKOもまたとても信頼を寄せる人達でした。

WATANKOは、この時すでにC社での仕事に大きな自信と愛着を持ってはいたものの、まだ30代前半であり、次は親会社に戻って自分がどこまでやれるのか試したい気持ちの方がまさっていました。

「お誘いは嬉しいですが、また親会社での仕事をやり切ってはおりません。将来、どこかの子会社に移れと言われる日がきたら、間違いなくC社を選びます。」と2人に告げて、親会社に戻っていきました。

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WATANKOは親会社に戻ってから以降、営業からは外れて3つの部署と海外子会社を渡り歩き気がつけば16年が経っていました。そして50歳の今年、C社への2度目への出向の機会が巡ってきたというわけです。

今回の出向を聞いた際に、なんと本当にC社でまた働く機会を得ることになろうとは、これはいかなる僥倖、はたまたは呪いなのかと驚いたものです。ともかくも以前の気持ちは変わらず、出向する子会社を選べるのであれば、WATANKOにとってC社以外の選択肢はありません。

現在のC社を調べてみると、かつてWATANKOが出向していた頃に親しくなった同年代の同社社員たちの多くが部課長として残っているのをみつけて嬉しくなりました。

WATANKOはこれまでと比べて、C社ではポジションも2つほどあがりことにあり、その分責任も重大でありますが、以前出向した時に感じた孤独な気持ちはありません。

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50歳のWATANKOが、この時期に子会社に出向するというのはなんとも微妙であります。もしこれが銀行などの金融機関であればまず間違いなく肩叩きであったことでしょう。

WATANKOの今回の出向がそれに該当するかどうかは実際のところわかりませんが、重要なことはWATANKOは今回の出向に際して仕事のモチベーションをどれだけ持てるかということであります。

それに関しては、早期リタイアを望む身からすれば残念なことではありますが、WATANKOの仕事のモチベーションは今回の出向によって上がってしまいました。

C社から戻ってから以降の16年の仕事経験をフルに活かして、この会社をどこまで変えることができるか。WATANKOにとってリタイアする前に取り組むのにちょうどよい最後のキャリアとなるかもしれません。

「将来、どこかの子会社に移れと言われる日がきたら、間違いなくC社を選びます。」と告げた日から16年。

C社の当時の社長と営業本部長、WATANKOは約束どおり戻ってきましたよ。

今日からC社に出勤開始です。いってまいります。

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